【懐かしい歌No.68】「栄光の架橋」ゆず(2004)
2004年、アテネオリンピックのテーマソングとして発売されました。
「体操ニッポン」の実況中継で、男子鉄棒演技の着地の際、アナウンサーがこの歌のタイトルになぞらえて
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架橋だ!」
と絶叫した場面が、今でも強く印象に残っています。
オリンピックとあれば、「前向きに頑張ろう!ファイト!」ばかりが前面に出てくるイメージが一般的に思えます。
ゆずの歌うこの歌にも、もちろん「前を向いて歩もう」のメッセージは込められてはいます。
しかし、それ以上に
「今ここにいる、ここに来るまでに、人知れずつらい日々があった」
「何度も夢をあきらめかけたが、これまで頑張って来たのだから、くじけずに未来を信じて生きていこう」
と、夢をつかむまでの「プロセス」の苦しみにも焦点を当てた歌詞の世界が描かれているのが特徴的です。
ヒットした曲なので、ご存知の方も多いと思いますが、改めて実際に1番だけ歌詞を見てみると、
誰にも見せない泪があった
人知れず流した泪があった
決して平らな道ではなかった
けれど確かに歩んできた道だ
あの時思い描いた夢の途中に
今も何度も何度も諦めかけた
夢の途中
いくつもの日々を越えて
たどり着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと
すでに冒頭の1行から、グッときます!
オリンピックに出場した選手は、その栄光をつかみとるために、己の人生をかけたまさに血のにじむような努力を重ねてきたことでしょう。
しかしこの歌詞は、ほかのアスリートにも、またスポーツに限らず我々の日常生活にも通じるものが多くあるように思えるのです。
曰く、受験勉強でめげそうになった時。
曰く、仕事がうまく進まない時。
曰く、人間関係や恋愛に悩んだ時。
ここまで苦労して来たのだから、努力はきっと報われる…
きっと頑張れる。
そっと背中を押してくれる歌です。
曲調は、「力強い王道のバラード」です。
冒頭は北川悠仁のソロ。
展開部Bメロに入ると、メインが岩沢厚治に移り、北川は3度下のハモリでそれを支えます。
そしてサビでは、再び北川メインで一緒に。
二人の一糸乱れぬハーモニーも美しく、聴きごたえがあります。
イントロとエンディングで、ピアノとストリングスのシンプルなアンサンブルのアレンジが施されているのも、印象的で好感度アップです。
ゆずと言えば、1990年代後半のストリートミュージシャン出身のフォークデュオの先駆者的存在。
1998年のメジャーデビュー曲「夏色」にあるように、ギター片手にフォークソングタッチの歌を歌っている姿が印象的です。
以降、発売するシングルすべて連続ヒットを飛ばし、「嗚呼、青春の日々」や「飛べない鳥」「アゲイン2」「歩行者優先」では最高位1位を獲得するなど、セールス面でも堂々たる実績を残しています。
そんな中、この「栄光の架橋」は、個人的には彼らにとって「別格の代表作」と呼んで差し支えない、圧倒的なパワーを持つ歌だと感じています。
「オリンピックのテーマソングはずっとこれでイイ!」とさえ思える歌です。
「お問い合わせフォーム」は何のため?アドセンス審査に必須ではない!(&無料版でも合格可能)。表示されていても使う気になれない、その理由は?
誰にとっても1日は24時間。
ブログと関わる生活が始まってから、決して大げさではなく、
「人生における有意義な時間の使い方」
に真剣に向き合うようになりました。
毎日たくさんの記事を読む度に思うこと。
「登録読者」は、「毎日連続投稿」を基本にされている方々が多いです。
記事のクオリティーもコンスタントに高く、感心させられます。
「構想を練る」段階だけで、相当の時間が費やされていることが容易にわかります。
そして、 何より驚くのは
その「文字数」と「ボリューム」!
公私含めパソコンに向き合う仕事をし、おおよそ人並みのタイピングスピードを会得していれば、
「一定時間で何文字打てるか」
「〇〇文字打つのに何分かかるか」
は、体感的に理解出来ます。
「これだけの文字数があるとなると、ただ入力するだけでも、相当数の時間がかかっているに違いない」
「ましてや、『内容の伴う』文章を作成するとなると、機械的な入力の何倍も時間が必要なはず」(内容上大量のコピペはありえない)
「さらに、動画や画像を大量に添付したり、凝ったデザインやレイアウトを施したりすれば、時間は余計にかかる」
それらを総合的に判断すると、掲載された記事をひと目見るだけで「ブログにどれだけの時間を充てているか」がかなり確実に推測出来てしまうのです。
これに加え、ブログ活動を継続していくためには、自分の記事を作成するだけでなく、ほかのブロガーさんたちの記事を「読みに行く」時間も当然確保しているはず。
また、人気ブロガーさんはブックマークやスターの数もハンパな数ではありません。
個々に対応するだけで1記事分書けてしまうくらい時間がかかるでしょう。
(それとも、芸能人のブログのように「読まれっぱなし」で放置なのか…?)
これらをすべて併せると
「24時間のうち、ブログにまつわる活動に何時間かけているのか?」
「それだけの時間をどうやって捻出しているのだろう?」
と心から思います。
「ブログを本業にしているのか?」としか思えないほど。
不思議でたまりません。
自分自身に照らし合わせると、
どう考えても「仕事やほかのプライベートな活動」と両立できる状態でないことは明らかです。
そこで、いつもこの記事の内容に立ち返って考えるのです。
人生を実りあるものにしてくれるブログ。
- 書く以上は、多くの人に読まれたい⇒「承認欲求」を満たしたい。
- しかし、「依存症」に陥ることなく、どこかで「歯止め」をかけて「マイペース」を守らなければならない。
- 一方で、モチベーションを維持・向上するためのインセンティブも獲得したい。
「ジレンマ」ならぬ「トリレンマ」と心の中で日々闘うことになります。
上述の「質・量ともに重厚なブログ」が執筆出来るのは、この「インセンティブ」あればこそ、なのだとの見方も出来ます。
この中で今日考えたいのは、3つめの項目「インセンティブ」についてです。
半年前に書いて、自分の中では当時そこそこの反響を呼び、読者の方から言及もされた記事です。
「ド直球ホンネ」で要約すれば、
「PV数や登録読者数の増加報告であれば、応援したいレベルで読むことが出来る」
しかし、
「アドセンス合格談やアフィリエイトについて誇らしげに語り、収益を自慢するブログ記事は、好きになれない」
というものでした。
そう言っておきながら、「アドセンス」という文字をここに入力すること自体、「自己矛盾」のような気がして、なんとも心がざわついてしまうのですが…
「これだけアクセスを集めた」⇒「これだけ稼いだ」の実績報告記事は、筆者にとっては「自らを鼓舞する」「モチベーションをアップさせる」ためのひとつの手段なのでしょう。
しかし、いち読者としては、ヒトサマの「武勇伝」を読まされても、羨望や嫉妬を煽られるだけに思えて、あまり愉快な気持ちにはなれないのがホンネです。
そもそも、情報の信頼性に疑問のある「釣り記事」かもしれない。
冷静な読み方が必要です。
今日の話は、そうしたセンシティブな面もさることながら…
そうした「実績報告記」や「悪戦苦闘記」「ノウハウ記事」の中によく見かける言葉の中で、ごく素朴な疑問として気になったこと。
多くのブロガーさんの記事に掲載されている
「お問い合わせフォーム」
の存在意義についてです。
画面の中にこの「お問い合わせフォーム」が掲載されているのは、なぜなのでしょう?
おそらく、アドセンス審査合格のために、「プライバシーポリシー」と「お問い合わせフォーム」の装備が必須である、との情報からでしょう。
実のところ私の記事も、細々とアドセンスとつながってはいます。
もちろん、報告できるような誇らしい実績とはまったく無縁ですし、具体的な数値について触れる予定もありません。
ここで強調したいのは、
アドセンス申請に当たり、上記のような「お問い合わせフォーム」や「プライバシーポリシー」は揃える必要がなかった
ついでに言えば、
「無料ブログでは申請出来ない」という情報もよく見かけますが、無料版でも問題なく審査を通過することが出来た
という事実です。
蛇足ながら…
ほとんどの方のブログは「Pro」仕様になっていますが、私自身この先も「有料ブログ」にすることは考えていません。
無料版のままにしておくことによって、「もったいないこと」「不利になること」「リスキーなこと」がたくさん発生しているであろうことは自分なりに理解しています。
しかし「有料」にすることで、「これだけ投資しているのだから、回収するまで辞めることは出来ない」とばかり、「ブログの『底なし沼』にのめり込んでしまう」デメリットの方が大きいと判断したからです。
では、この「お問い合わせフォーム」のフォーマット、本当に必要なのでしょうか?
また、実際にはどれだけ活用されているのでしょうか?
よろしければ、ブクマコメントで皆さんの利用状況をお知らせいただきたいです。
少なくとも、私は1回も使ったことがありません。
それ以上に「使う気になれない」のがホンネです。
なぜか??
「お問い合わせ」に当たっては、送受信のためにメールアドレスが不可欠になります。
アドレス自体は、開示してもさほど危険なものではありませんが、問題はそこから。
私の場合、アドレス設定と同時に、自分の本名をセットで登録しているのです。
従って、相手方がメールを受信した側には「さえわたる」ではなく、登録された本名で届くことになってしまいます。
かと言って、専用の別アドレスを用意するのも面倒です。
そこがちょっと引っかかります。
別に本名がバレて困るような記事は書いていないつもりですし、さらに「音楽活動の記事」を中心に、(興味を持ってググろうと思えば)個人情報がバレてしまうような記事を自らけっこう書いてしまっているので、そこはいささか「言行不一致」な面もあるのですが…。
この「お問い合わせフォーム」、
記事のコメント欄に書き込むと、Q&Aの内容が第三者の目に触れてしまうので、「当事者同士だけでやりとりをしたい」目的のために設定されているものと理解しています。
ほかにも、Googleサマ側にこれの利用を促す何らかの狙いがあるのかもしれません。
しかし、「個別にメッセージをやりとりする」という目的なら、Twitterのアカウント内で十分間に合うことだと思っています。
たいていの方は、記事のブックマークボタン同様、Twittterボタンも設定されているものと思います。
私は、特定のブロガーさんと記事以外のエリアで個別にやりとりしたい場合は、Twitterのメッセージ機能を活用しています。
私の場合、ブログと同じ名前で登録しているので、「さえわたる」からのメッセージであることはすぐにわかりますし、上述した本名云々の心配もありません。
入力もカンタンですし、ブログ画面の「お問い合わせフォーム」を通したやりとりよりはるかにスピーディーでもあります。
それで十分だと思っています。
もっと互いに信頼し合える間柄になったら、必要に応じてメールやLINEでつながったり、電話番号を教え合ったりしてもOKでしょう。
(ブログの世界ではそこまでは想定されていないのでしょうが、ひとつの「可能性」として)
運営にまつわるさまざまな「お役立ち情報」を活用せず、「面倒くさい」「純粋に書くことに専念したい」と思ってしまう私は、実はブロガーには向いていないのかもしれません。
「応援お願いします」~スポーツ・歌・政治~言われる場面によって純粋さが消え、おカネのにおいがしてくる言葉
以前の記事で、日常会話で非常によく登場する便利な言い回し「よろしくお願いします」について触れました。
この時は「致します」の漢字使いの方がメインでしたが、この「よろしく」(=状況が「よろしくなるように取り計らいを…」)に似たニュアンスの言葉として、「応援お願いします」があります。
「応援よろしくお願いします」と、間に「よろしく」が入ることも多いです。
この言葉が一番シックリ来る場面は、やはりスポーツにおいて、でしょう。
さらに、アマチュアスポーツの場合。
選手がこの言葉を発するのは、
「試合に勝つように応援して欲しい!」
そんな純粋な気持ちから出てくるものだと思います。
だからこそ、観客はその言葉に応えて客席から、あるいはテレビ画面から、心からの声援を送るのです。
これが「プロ」の世界になると、言葉に接した時の気持ちが若干変わってくる。
一番の目的は、「チケットを買って見に来て欲しい」。
それでも、スポーツであればどんなものにも「勝ち負け」の要素があるので、「勝つように」応援して欲しいとの気持ちに打たれ、という要素はあります。
「応援お願いします」の言葉を聞いて、スポーツより純粋度が落ちるかも?と感じたのが、歌手の場合。
新曲が発売されるタイミングで、「応援よろしくお願いします」が多用されます。
歌番組におけるナマの発言もありますし、それ以上にラジオのスポットCMで流れるのをよく聴きます。
感覚的に、演歌歌手に多いような…
「勝ち負け」ではないのに「応援する」…
ここで言う「応援」とは、つまり「CDを買って欲しい」を意味します。
歌手もプロなので当然と言えば当然ですが、直接「CDを買って!」ではなく「応援して!」という言葉を持ってくるところに、日本人らしい婉曲表現、奥ゆかしさ(?)を感じます。
興味深いのは、同じ歌手でも、
コンサート(ライヴ)には「ぜひ(遊びに)来て下さい!」
とダイレクトな表現を使っていること。
俳優が映画公開に合わせて「ぜひ劇場でごらん下さい!」と連呼するのと同じです。
CDを買うのと一緒で、どちらも「おカネを払っている」ことには変わりないのに…
政治家も、ある一定期間のみ「応援お願いします」(あるいは「声援」)を連発します。
ただし、それが熱心に聞かれるのは選挙戦の一定期間だけ。
CDを買えば、あるいはライヴに出かければ、応援した(=おカネを払った)だけの満足感をすぐに直接実感することが出来ます。
しかし、こと政治に対してはおカネ(血税)を払った対価がなかなか実感できない気がする。
何とも歯がゆいところではあります。
好きな音楽活動におカネがからむと、時として音楽が「好きなこと」ではなくなってしまう
これまで記事で触れて来た私の音楽活動には、いくつかのパターンがあります。
そして、その多くは自分からおカネを支払って行う「趣味」の領域を超え、「楽しい良き思い出」だけにとどまらず、かけた時間と労力に応じて逆に報酬が発生するものが多くあります。
ちなみに…
過去記事でまとめていますが、あくまで音楽は「仕事」とは一切無関係です。
まずはヴァイオリン奏者として。
1つめ
オーケストラのステージ活動に携わるもの。
演奏旅行にエキストラとして参加した時には、交通費と滞在中の宿泊費がタダという形で、実質的な謝礼をもらいました。
北海道各地を転々と10泊もするなど、プライベートではとてもあり得ないことです。
2つめ
パーティーのBGM生演奏係のオファーが入れば、拘束時間に応じてやはり相応の謝礼が発生します。
一流ホテルのバイキング料理にありつけるのも魅力です。
3つめ
「ヴァイオリンのセンセイ」としての活動。
教えるのですから、「月謝」を受け取ることになります。
今度は歌作りの分野において。
4つめ
コンテストに応募し入賞すれば、賞金が出ます。
5つめ
テレビ・ラジオに出演すれば、NHKからのギャラが発生します。
6つめ
歌い手としてのステージ出演オファーがあれば、やはり謝礼が出ます。saewataru.hatenablog.com
ここまでは、
「喜んで受けることができる」
「ストレスなく、純粋に好きなことをやって報酬がもらえる」
非常にハッピーな状況です。
残念ながら、演奏旅行もコンテストへの応募もステージも、「その場限りのスポット案件」であるケースが多いですが。
ところが…
7つめ
「歌詞を持ち込まれての作曲・アレンジ・ヴォーカル依頼」だけは、ちょっと状況が違います。
こちらは、継続的なオーダーが現在も入っています。
いざ、発注を受ける。
演奏時間たかだか3分4分の歌1曲を仕上げるのにも、メロディーの構想からアレンジ(コンピューターを使ってのカラオケ作り)・レコーディングに至るまで、相当の時間がかかります。
それを踏まえて、まずこちらから所要時間を世間並みの時給に換算した「決してぼったくりではない」見積もりを提出します。
たいていは、こちらから提示した条件がそのまま通り、「作業開始⇒楽曲制作⇒引き渡し」が進行します。
「瞬間風速」的ではありますが、本業収入を超えることもある魅力的なオファーです。
しかし、すべてがスムーズに運ぶわけではありません。
こちらは「お客様の注文を受ける」立場になるわけですから、仕事同様先方の希望には沿わなければなりません。
ほとんどのケースでは、こちらが音作りをしたものでそのまま納品になるのですが、時に「手直し要求」が発生します。
その際困るのが、「要求のポイントが具体的でないこと」。
どこのメロディー・音符をどのように直して欲しいと具体的に言われれば対応できるのですが、そこは題材が「音楽」という抽象的なモノ。
「なんとなく歌詞のイメージと違うから…」
と言われることが多く、困ってしまいます。
音楽という「感性」の世界で、詞と曲のイメージ合わせをするのは非常に大変なことなのです。
音楽の感性とは、自分の価値観・人生観そのものである面が大きいので、根本的な発想をどのように転換するか非常に悩みます。
それでも、請け負った以上は報酬に見合った作業をしなければならない。
時には本業以上に、時間とストレスがかかることがあります。
「純粋に好き」で行っている音楽活動の一環なのに、おカネがからむことによって、時として好きでなくなってしまう瞬間があります。
「ただ取り組んでいるだけなら、楽しいのに…」
おカネのことを考えて接すると、楽しくなくなってしまう…
それって、このブログにもちょっと通じるところがある…
そんな風に感じることもあります。
ブログを書く・書かないなど、一切個人の自由。
書くのが大変だと思ったら、休むなり辞めるなりすれば良い。
「楽しい」と思える範囲でやればいいのに。
それと同様に、
「シンドイと思うんだったら、そんな注文など受けなければいいのに」と言われそうです。
でも、クライアントは完全にビジネスライクな関係だけではなく、「私を信用してくれて、長年親しく付き合って来た知人たち」である場合も多いのです。
そうした人たちからの頼み事を無下に断ることも出来ない、そんなジレンマも実態としてあります。
これからもチャンスやオファーがある限り、音楽そのもの、そしてそこに関わる人たちを含め、「ブログよりエネルギーを費やすべき人生の大切な伴侶」としてずっと付き合い続けていくことになるのだと思います。
【懐かしい歌No.67】「ひだまりの詩」Le Couple(1997)
フジテレビ系で放映された話題のドラマ「ひとつ屋根の下2」。
その挿入歌に起用されるや、じわじわと人気に火が付き、「紅白」にも出場しました。
英語で「ザ・カップル」を意味するフランス語「Le Couple」=「ル・クプル」。
曲の販売当時は、「夫婦」でした(過去形)。
メインヴォーカルの藤田恵美は、小学生の時から子役として芸能界で活動。
「ひまわりキティーズ」なる児童コーラスグループに所属していました。
左卜全の伝説のヒット曲「老人と子供のポルカ」のバックコーラスを務めていたことが、この曲のヒットで明らかになりました。
(「やめてけれ!やめてけれ!ズビズバ~!パパパヤ~」がものすごいインパクトだった…)
1990年に結婚し、夫婦コンビで「Le Couple」としての活動を開始。
5枚目のシングルにして、爆発的なヒットとなりました。
穏やかで透明感のある、そしてどこかしら懐かしさや切なさも感じられる、とても魅力的なメロディーだと感じます。
「形容詞」はいくらでも付けられますし、「イイなぁ」と思うからこそ、ここに取り上げているのは大前提なのですが…
音楽的に分析すると
この「あっさり・淡々とした歌がよく売れたなぁ」というのが正直な感想です。
通常、歌を作る際には「構成」を意識します。
いわばメロディーの「骨組み」です。
それを一般的に「Aメロ・Bメロ・サビ…」のように呼んでいるわけです。
そして、それぞれのパーツは「色合いの異なったもの」を用意します。
たとえば…
Aメロは低音で静かに始まって、サビで高音を使い盛り上げる。
Aメロは細かい音符を多用し、サビでは長い音で歌い上げる(またはその逆)。
このような工夫を施すことで、ワンコーラスの中に「メリハリ」が生まれます。
ところが、そうした観点でこの曲を見てみると、ワンコーラス通じて「大きな変化」がないことに気づきます。
イントロは、歌い出しの「ドミソ」の主和音を取るためだけとも思える、和音が並んでいるだけの4小節のみ。
歌に入ってからの音符の長さも、前半・後半通じて4分音符・8分音符がバランス良く配されていて、上記に挙げたような「メリハリ」は感じられない。
「メロディーのある歌」ですから当然「音の上下」はあるわけですが、どの歌でもたいていはっきりそれとわかる「サビらしいサビ」が見当たりません。
強いて言えば、
「どんなに言葉にしても 足りないくらい~」
から高音部の多用が見られますが、ここで盛り上がったと思ったら、
「あなた 愛してくれた すべて 包んでくれた まるで ひだまりでした」
の「歌詞の上では、ここが決めどころだろう!」の部分のメロディーは、再び静かな低音に。
「キレイに収まる」と言えば「収まる」作りですが、ドラマチックな高揚感はありません。
「シンコペーションがほとんどない」のも、この歌の「あっさり感」につながっています。
「シンコペーション」とは音楽用語で、(4拍子の曲であれば)音符を4つの拍からずらし、拍と拍の間に置くこと。
これによってメロディーに「ノリ」が生まれ、リズミカルにカッコ良く聞こえるのです。
ところが、この歌はその手法も使われていません。
リズムに目を向けると、これまた常に4拍子の「1・2・3・4」を意識した8ビートがず~っと刻まれているのみ。
ここにも「変化」はありません。
その「何もなさ」が、せわしない人の心の「癒し」になったのだと思います。
目新しさはないかもしれないけれど、逆に「色褪せない味わい」がある…
「こういう曲の作り方もアリなのだ」と学ばせられる曲でもあります。
ハキハキした挨拶は心地良いが、職場での会話でやたら「はい!」を連発する部下に困った話
幼い頃から親に、また幼稚園や学校で、
「〇〇ちゃん、お返事は?」
と教え込まれます。
ちゃんと「はい!」と返事出来ることは、人間として最初に習うマナーかもしれません。
もちろん、社会人になってからのコミュニケーションには、明瞭な返答が求められます。
何事にもハキハキと「はい!」と言えると、好感度アップです。
私の部署に、若手社員が部下として入ってきました。
当初は、なんでも「はい!」と答える好青年の印象でした。
ところが、話を進めるうちに、相づちだけで済むタイミングでもことごとく「はい!」を連発して応答するしゃべり方が、だんだん気になってきました。
返事をすること自体は、決して悪いわけではない。
しかし、あまり深く考えている風でもなく、半ば口ぐせのようにあまりにも「はい!」の頻度が多いので、
「本当に話の内容がわかって返事をしているのだろうか?」
と思えてきたのです。
具体的な仕事の話の場面。
私「〇〇くん、ちょっと…」
部下「はい!」(すぐやって来る。ここは好感触)
私「昨日の例の件なんだけど…」
部下(こちらが話し終わらないうちに)「はい!」
私「先方の感触を訊きたいと…」
部下(私の話を遮るように再び)「はい!」
(似たようなやりとりがしばらく続く)
私(若干いらいらし始めるが、そこは抑えて)「それで、相手の感触は良かったの?」
部下「はい!」
私「良かったんだね?」
部下「はい!あの~、その件について〇〇さんとお話ししまして、〇〇さんからはここをこう言われまして、私はここをこうご説明して…」
(その後も延々と「経緯説明」が続いて、「結果」がいつまで経っても見えて来ない)
私(ついにシビレを切らし)「で、結論としてはどうだったの?」
部下「(またも)はい!出直して来るように言われました。」
私「・・・(そこは「はい!」じゃないだろ?!)」
「はい!」と答えられると、こちらとしては仕事はうまく捗っているのだと思ってしまいます。
ところが、これだけ質問と「はい!」の返事を重ねた後で、実は答えは「はい!」ではなく、何らかの問題が発生していることが、さんざんやりとりをした末に初めてわかる。
返事も大切ですが、時間の有効活用はもっと大事。
さんざん「引っ張って」おいて、結論はイエスだと思っていたらノーなのかよ?!
そんな気分にさせられます。
横柄な言葉遣いは論外ですが、本人はきちんと受け答えしているつもりでも、適切なコミュニケーションにはなっていないケースもあるのです。
仕事の進捗の報告は、
「相手が何を聞きたいかをまず理解する」
「経緯よりも結論を先に言う」
「悪い話からまず報告する」
これを機会あるごとに辛抱強く諭しながら伝えました。
社会人としては新米でも、彼なりの価値観や考え方はかなりの程度すでに確立しています。
そこを変えさせるのは、決して容易なことではありません。
時間はかかりましたが、その後「ミスター・イエスマン」の言動は少しずつ改善していきました。
たかがエレベーターでこんなことまで考えてしまう、せっかちな自分の性格は治らない
都心では、20階・30階建ての高層ビルが林立しています。
そんなビルに、公私含め出かける機会がよくあります。
当然、目的地ではエレベーターを利用します。
主にオフィスビルでは、本格的な高層ビルになると「低層階」「中層階」「高層階」と行き先が3種類に分かれていて、高層階でも移動時間短縮のため、途中をパスして到着できるような設計になっています。
種類によるのでしょうが…
標準的なエレベーターの場合、カゴが「今何階にいるか」の階数と上下の矢印が、数字で表示されています。
それによって、今自分がいる階に近いのかどうか、おおよその想像がつきます。
ところが機種によっては(特に大規模なビルのエレベーターの場合)、階数表示がなく、何基かあるうちその階に近づいた1基のみドア横の表示灯がまず点灯し、ドアが開く直前になると「ピンポ~ン」の音と共に点滅するタイプのものがよくあります。
そうしたエレベーターを待っている間。
当たり前ながら、扉は閉まっている。
階数表示がないので、カゴが今どの辺りにいるか、近くのフロアにいるのか、知るすべがない。
いつ接近を示す表示灯が点滅するのか、わからない!
あとどれだけ待ったらよいのか、心の準備ができない。
駅のホームにだって、「前の駅」「前の前の駅」のように、列車の接近表示があるというのに。
仮に階数表示が見えていたところで、途中の階で乗り降りがあれば、その分到着するまでに時間はかかります。
階数を示す数字がパネルに表示されたまま、ずーっと動かないことだって、ごく当たり前です。
ゆえに、数字が見えたからと言って、別に待ち時間が短縮されるわけではないことはわかっているのですが…
こんなせっかちは、悪化することはあっても改善することは性格上なさそうです。
せっかちついでに、エレベーターがらみでの超自分勝手なお話。
10階建てぐらいの面積のそれほど大きくないビルだと、エレベーターが1基しかないこともよくあります。
長いこと待って、ようやく誰も乗っていないエレベーターが1階に下りてくる。
自分は10階に行きたい。
幸い、他に乗客はいない。
やれやれと「閉」ボタンを押そうとしたところ、立て続けに何人かが駆け込んでくる。
7階、5階、3階…
思い思いの階のボタンを押す。
ノンストップで「直通運転」できると思っていたのが、急きょ「各駅停車」になってしまう…。
自分は長いこと待って、先に乗ったのに…
AIか何かを搭載して、エレベーターが長く待っていた客の順番を察知して、10階・3階・5階と停車していってくれたらいいのに…
なんて、ありえないことを考えてしまいます。
仕事の時。
大事な訪問の時。
急いでいる時に限って、こういうことがよく起こります。
【懐かしい歌No.66】「Woman」フランク永井(1982)
1955年にジャズ歌手としてデビューするもヒットが出ず、ほどなく歌謡曲歌手に転向。
1957年に発売された「有楽町で逢いましょう」が、当時空前の大ヒットとなりました。
この曲は、以前有楽町駅前にあった「そごう百貨店」(現:ビックカメラ)のキャンペーンソングという異例のエピソードを持つ「東京のご当地ソング」でした。
以降も「夜霧に消えたチャコ」、現代でもデュエット曲の定番として歌い継がれている「東京ナイト・クラブ」などのヒットを経て、1961年には「君恋し」でレコード大賞(当時は、「紅白」と並んで歌謡界の権威ある大イベントだった)を受賞しています。
少し時代が下ったところでは、1977年に発売(1966年B面であったものをA面として再発売)した「おまえに」がロングヒット。
紅白に連続26回出場の実績も持つ「国民的人気歌手」。
「低音の魅力といえばフランク永井」と言われる、特に低音域の声に定評のある実力派人気歌手でした。
このように、主な活躍時期は1950年代から60年代にかけて。
歌どころか人物自体、ご存知ない方がほとんどでしょう。
私もリアルタイムでは聴いたことのない曲ばかりです。
しかし、「オトナの歌手イコール演歌歌手」の時代背景の中で、ジャズ出身らしく「非・演歌」のモダンな作品を発表し続けていた彼の存在は、幼い頃から強く意識の中にありました。
そんな中1982年に発売され話題となったのが、この「Woman」です。
往年のヒット作から感じられる「古風な」イメージが耳に馴染んでいた身にとって、それまでとはまったく異なる現代風の曲調は、まさに衝撃的でした。
実は、あの山下達郎が、大先輩であるフランク永井に向けて提供した楽曲だったのです。
この異色のコラボレーションがきっかけとなり、それまで演歌(ブルース)歌手のイメージが強かった森進一が翌1983年、まったく畑違いとも言える松本隆作詞・大瀧詠一作曲による「冬のリヴィエラ」を発売した、とも言われています。
彼の持ち味の低音域を生かしたメロディーラインに、洋楽のスタンダードナンバーをもイメージさせる洗練されたサウンドとコード進行。
この曲はハ長調なのですが、たとえば冒頭の4小節だけ見ても、
C、Caug、C6、Gm6/B♭、Aaug…
など、いかにも山下達郎らしい複雑きわまりないコードを当てはめています。
また、ミディアムな16ビートのリズムもなかなかの味わいです。
このポップなビートにうまく乗れないと、歌いこなせない流れの音符になっています。
Aメロ-Aメロ-Bメロ(サビ)プラスCメロまである構成から見ても、懐メロではなく完全にJ-POPジャンルと呼べる作品です。
歌詞の面での特徴も。
伝統的にニッポンの歌は、日本語の調べとして(短歌や俳句、都都逸のように)、歌詞が7文字プラス5文字を基本に構成されることが多いのですが、この曲のサビは6文字ずつの連続。
細かいことですが、ニッポンのはやり歌にはなかなかないスタイルです。
歌い手側の変貌ぶりもさることながら、当時20代にしてこのサウンドを完成させる山下達郎の音楽センスに、今さらながらただただ脱帽です。
日テレ「24時間テレビ」本当に9月に「強行」するのか?TBS「オールスター感謝祭」に続き、フジ「27時間テレビ」も苦渋?の決断
先日、今年の「紅白」の展望について記事を載せました。
「今から大晦日の記事なんて、いささかフライング気味ではないか?」と思って書いたら、先週スポーツ新聞で1面まるまる使って「紅白」が大きく報じられていました。
(「本業」のスポーツ記事が書けなくて、紙面構成にかなり苦慮しているようです)
「マスコミと同じノリで、けっこうグッドタイミングだったのかも?」と心の中で思わず叫んでしまいました。
この記事に関しては、「レギュラー読者」以外の方からの「ホンネコメント」も届きました。
総合すると、
「ステージは司会者のみ」(=NHKホールではなく、局のスタジオ)
「歌は事前収録と、これまでも多用されてきた中継などのミックスで」
「ホールの観客席は使用しない」
など。
「まったく違ったスタイルながら、『紅白』の名前は絶やさずにオンエアを目指すのではないか?」との意見が大勢でした。
さて、社会的インパクトは「紅白」とは比べようもありませんが、民放各局にも「年に1、2度」の「お祭り的」番組が存在します。
まずは、
TBS系の「オールスター感謝祭」。
毎年、番組改編期の4月・10月の土曜日夜にオンエア。
5時間近くに及ぶ長時間の生放送で、スタジオに同局バラエティー番組やそのクールのドラマの出演者何百人が集まり、クイズやカラダを張ったチャレンジを行うのが主な内容です。
放送時間のほぼ真ん中の午後9時台に、TBSのある赤坂周辺を舞台にした「ミニマラソン」が行われるのがひとつの「目玉企画」でもあります。
毎回熱心に観ているわけではありませんが、そこの部分だけ時々チャンネルを合わせたりしていました。
1991年の放送開始から30年を誇る「年中行事」としてすっかり定着していた感がありました。
しかし、狭いスタジオに大勢のゲストを集めるなど出来るはずもなく、4月放送分は「あっさり」中止となりました。
このままだと、10月のオンエアも危ぶまれます。
これよりスケールが大きいと思われるのが、
日テレ系「24時間テレビ~愛は地球を救う」。
こちらの歴史はもっと古く、放送開始は1978年。
今さら内容をレビューする必要もないと思われますが…
出演者たちが放送1週間も前からお揃いのTシャツを身に付け、日本武道館に何千人もの観客を収容して、毎年「地球愛にまつわるサブテーマ」を設定。
途中ドラマや各地の中継等も随時はさみながら、ドラマチックな場面をドキュメンタリーとして演出していく。
そして「最大の企画」は、毎年「旬」(?)のゲストを選出しての「24時間マラソン」。
ラスト1時間は、ZARD「負けないで」をひたすら歌い続けながらランナーを応援。
そして、ランナーが会場に到着しそうになると、
♬「さくら~ふぶきの~」の「サライ」の合唱で、大団円のフィナーレを迎える…
これらが「ルーティン」となっています。
個人的には(番組ファンの方々には申し訳ないことですが)
この番組に対しては、基本的に「アンチ」派です。
もちろん「24時間まるまる」番組に付き合う時間など、物理的にありません。
障がいを持つ方を登場させて、彼らに果敢な(無謀な?)挑戦を求めるコーナーを随所に設けるなどして、「応援」を促すシーンがひたすら前面に押し出されている。
「人間なら、これを見て感動するのが当然!」と言わんばかりに、心情的に批判の余地を与えないようなスタンスが見え隠れするところが、番組制作手法として姑息な手段に思えてしまうのです。
「感動の押し売り」「偽善者」といった言葉が、毎回ネットを賑わせる所以でもあります。
「24時間マラソン」
にも、いろいろな議論が渦巻いています。
「大前提」として、「走る必要があるのか?」
そう言ってしまうと、身も蓋もないのですが。
100キロを本当に走っているのかどうか?
放送中、常に画面の片隅にワイプでも設定して流していれば、曲がりなりにも走っている様子がわかるので信用出来るのですが…
「途中ワープ」疑惑は、常に取り沙汰されます。
ゴール直後、「100キロを走り切ったとはとても信じられないほど、平然とした表情」でインタビューに応じることの出来るランナーのなんと多いことか!
ほとんど毎回、番組終了数分前の「絶妙なタイミング」でランナーが会場の武道館に到着するのも不思議です。
あまり積極的には公表されていないものの、その年のランナーによって走る距離は微妙に「調整」されている様子。
だとしても、生放送でこれだけゴール時刻がピッタリ合うのはあまりに出来過ぎです。
昨年同様、今年も「リレー方式」が採用される様子ですが、「タイミング問題」は依然残ります。
マラソンをはじめとする各コーナーの企画云々もさることながら、ここ数年「最も大事な原点」の影が薄くなっているように思えるのです。
もともとこの番組は、「恵まれない人に募金を」との趣旨で始まった「チャリティー番組」だったはず。
一般の人が募金のため行列を作る姿が画面に何度となく映し出され、最後に募金総額が発表されるのが、大きなハイライトでもありました。
「チャリティー」を謳うなら、なぜ出演者に高額のギャラが支払われるのか?
素朴かつ根本的な大疑問です。
本当に当初の趣旨を守って放送が継続されているなら、番組への見方も少し変わってくるところなのですが…
こちらは、例年であれば8月の最終週の土日を使って放送されている番組。
オンエアまでおよそ3か月。
日本テレビからは「9月5日、6日を予定」との報道も出ているようです。
しかし、いつもならすでに「マラソンランナー」が発表され、事前PRが盛んに展開されている時期。
プロのランナーでもない「一般芸能人」が本当に走るなら、本業の合間に走れるようになるためのトレーニングをするのには、あまりに短い準備期間です。
東京が仮にあっという間に「ステップ3」までをクリアできたとしても、この短期間で通常の放送スタイルをキープすることは、かなり難しいでしょう。
「無観客開催」では、コンセプトが根底から崩れてしまいます。
「障がい者主役のチャレンジロケ」も困難。
「感動ドラマ!の収録」もスケジューリングされているようですが、不透明。
テレビ局として、この番組に関してどの程度の収支決算を見込んでいるのかは知る由もありませんが、いち視聴者としては、普通に土日のレギュラー番組をオンエアしてもらってまったく問題ないと感じています。
そして、(私が知ったのは昨日の早朝)
フジテレビ系「27時間テレビ」が、放送開始34年目にして初の「中止」を発表しました。
もともと1987年にフジ開局30周年特番として企画され、スタート当初は全国の系列局を巻き込んだ「FNS一億人のテレビ夢列島」というタイトルの24時間放送でした。
1997年以降は、日テレの「24時間」を上回る「27時間放送」スタイルに。
毎年テーマを決めてぶっ通しで放送。
各局からの中継や生放送で盛り上げる手法は、「24時間テレビ」と大同小異です。
ただ、フジテレビらしく(?)、良し悪しは別として番組全体が「バラエティーに徹していた」ようには思えます。
そもそも、「ライバルの日テレが長時間番組をやるのなら、ウチも何らかの形でやらなければ」の「後追い的雰囲気」で始まったような感覚がありました。
後発局としては、「同じ24時間」では目立たないので、放送時間も27時間に延長したような…
放送時期も例年「24時間テレビ」より2~3週間先行して、7月下旬から8月上旬だったような印象があります。
今年も8月中旬の放送を予定していましたが、初の放送中止となりました。
私は「英断」だと思います。
フジによれば、放送半年前から諸準備を進めてきたとのこと。
当然日テレ「24時間テレビ」とて、準備に同等の期間が求められていることでしょう。
個人的な印象ですが、フジテレビにとっての「27時間テレビ」より、日本テレビにとっての「24時間テレビ」の「看板番組」としてのウエイトは大きいような気がするのです。
社長曰く、「チャリティーとしての社会的使命がある」のだそうです。
コメントを全面否定はしませんが、お金の流れを含むもっと大きな要因が影響していることは自明の理。
がゆえに、オンエア中止に踏み切ることはどうしても出来ないのかな?と。
いずれにせよ、
放送スタイルの変更によって、従来番組を支えて来た「生放送の迫力」が発揮できなくなるのは、致命的だと感じます。
特に「番組の代名詞」とも言えるマラソンは、どのような形で「強行」するのでしょう??
熱心に観ているわけでもないのに、やはり気になります。
オーケストラに欠かせない「アシ」とは?足ではなくて…
あまり馴染みのない方が多いかもしれませんが、何かの話のタネにお付き合い下さい。
日本では「クラシック」と言われていますが、英語で綴ると「Classical Music」。
「クラシカル・ミュージック」と本来は呼ぶべきところです。
英語でClassicと言うと、もともとは「一流の、最高水準の、典雅な、高尚な」の意味があり、そこから派生して「古典の」の意味合いも含まれるようになりました。
ですから、大きな違いはないんですけどね。
さて、クラシック音楽を演奏する際の
オーケストラの編成は、基本的に次のようになっています。
(数字はパート数)
<木管楽器>
フルート2(時にピッコロ1)、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2
<金管楽器>
トランペット3、トロンボーン3、ホルン4(時にチューバ1)
<打楽器>
<弦楽器>
楽器の表示順も上記のように決まっています。
なぜなら、曲の全部のパートを一覧で並べた楽譜(「総譜」「スコア」と呼んでいます)が、この順番に定められているからです。
これらすべてを、指揮者が束ねて演奏するのです。
ここで、弦楽器とその他の楽器には、編成上大きな違いがあります。
木管楽器や金管楽器、いわゆる「吹く楽器」は、原則として「1人で1パート」を担当します。
それに対して、ヴァイオリンやヴィオラ・チェロなどの弦楽器、「弾く楽器」は、複数名で1つのパートを演奏します。
「ヴァイオリン2」とあるのは、ファーストヴァイオリン・セカンドヴァイオリンで、普通の編成のオーケストラだと、それぞれ10人から12人ずつ(ファースト・セカンド合わせて20人以上)います。
ヴィオラ・チェロも、それぞれ10人ずつぐらい。
コントラバスも5~6人います。
「吹く楽器」と「弾く楽器」は、かたや1人で1パート、かたや10人で1パート。
人数が全然違うんですね。
それが標準の構成なのですが、実際演奏してみると、やはり全体のバランスからして「吹く楽器」の音量が負けてしまうことがあります(特に木管楽器)。
そんな時(曲やオーケストラの人数・演奏者の力量によりますが)、「吹く楽器」パートにサポートメンバーを加えて、1パートを複数にして演奏する場合があります。
このサポートメンバーを、オーケストラでは一般に「アシスタント」と呼んでいます。
略して「アシ」。
練習中の会話でも、ごく普通に「アシ・アシ…」が出てくるので、個人的には特に違和感はないのですが、音の響きを考えるとちょっと滑稽かもしれませんね。
【なんでやねん!】おばちゃんのファッションは派手なのに、なぜか渋い黒塗りが多い大阪のタクシー。そのワケは
タクシーと言えば、一般車とは違うさまざまな色の塗装が施されているのが普通、との感覚があります。
ニューヨークの「イエローキャブ」は世界的に有名ですが、東京で見かけるタクシーも車体が緑だったりオレンジだったりけっこう派手で、遠くからでもすぐわかります。
皆さんの街のタクシーの色は、いかがですか?
タクシーは、日ごろほとんど利用することがないのでそれほど実害はないのですが、ちょっと気になることがあります。
それは、
助手席の前に付いている「空車」マーク。
乗りたくて、空車を探している時。
タクシーらしきクルマがやって来ます。
助手席の前方を確認。
遠目には、赤い文字が2つ点灯しているようにしか見えません。
赤字が点灯しているので、てっきり空車かと思って手を上げる。
ところが、運転手はまったく無視!
若干苛立ち気になぜかと思って、近づいてくるタクシーを見ると「空車」ではないことがある。
赤い2文字の正体は、「空車」ではなく「回送」だったり「迎車」だったり。
至近距離まで近づいて、初めてそれがわかるのです。
なぜ同じ赤色にするのでしょうか?!
深夜料金の時には「割増」と緑字になるのですぐわかります。
でも、赤字はやはり紛らわしい!
「空車」と「回送」は遠くからでも区別できるように工夫してもらえないものか、と。
それはともかく。
タクシーに関してちょっと興味深いと思ったのが…
大阪のタクシーは黒塗りが目立つこと。
ほぼ「黒一色」と言ってよいほどです。
東京とは対照的です。
転勤で大阪勤務をしていた時期が、けっこう長い期間ありました。
景気が良くて、まだ会社の「経費」が潤沢だった頃。
会食で夜遅くなった時など、会社発行の「タクシーチケット」で大阪一の歓楽街「北新地」エリアから自宅まで乗って帰るのもOK…
北新地って、通勤で使っていた大阪駅(梅田駅)から微妙に距離があるのです。
酔っぱらった状態で混雑の中駅まで歩くのは、正直ちょっとツライ。
そんな時、お店から直行で自宅まで送り届けてくれるなんて…
まさに「夢のような時代」でした。
ネオンの街に並ぶタクシーが、やけに地味な色合い揃いだった記憶があります。
かつては東京でも、黒塗りのタクシーが多かったのです。
しかし、タクシー大手の日本交通が、ニューヨークのイエローキャブに倣って緑や黄色・オレンジ色などのカラフルな車両を取り入れ、以来他社が追随した、という歴史があるようです。
そんな東京でも最近は、「2020」のオリンピックマークを付けた2ボックスタイプの黒色タクシーが目立つようになりましたが…
一方、
大阪では8割以上のタクシー車両が黒塗り装備です。
その主な理由は、
「黒であれば、冠婚葬祭時も支障なく使える」
「ハイヤーのように高級感がある」
なのだとか。
確かに、斎場の出入り口がカラフルなクルマに彩られていたら、ちょっと異様かもしれない。
言われてみれば一理あります。
さらに、時と場合によって、派手な光を放つ天井部の表示灯も取り外せるようになっているそうです。
東京に比べて、ハイヤーの保有台数が絶対数でも人口比でも少ない大阪では、タクシーをハイヤー代わりに利用する…
実際、タクシーさえもあまり使わないのに、ハイヤーを手配する場面というのは、個人的にはなかなか想像しにくいものがありますが…
ここまで書いて、「そもそも最近、ハイヤーって今もあるのだろうか?」とふと思ってしまいました。
でも、例の東京高等検察事件では、「送り迎えにハイヤーを使っていた」との報道がありましたから、庶民とはほど遠いところでは活躍しているのでしょう。
「大阪のオバチャンは、ド派手ヒョウ柄ファッション」のイメージで有名です。
「コテコテの~」という形容詞があるように、大阪と言えば何でも派手!
実際に暮らしてみるまで、勝手にそう思い込んでしまいがちでした。
ところが、タクシーの色に関しては控えめ。
なるほど、確かに合理的だと思いました。
【懐かしい歌No.65】「Everything」MISIA(2000)
2000年の10月。
世紀末ギリギリに発売されたこの曲の大ヒットで、MISIAは数ある歌手の中で何かしら
「特別感のあるシンガー」
に位置付けられたような印象があります。
その圧倒的・パワフルな歌声。
豊かな歌唱力・表現力。
そこは文句なく評価できるところですが、音楽的に分析する云々以前に、彼女の存在そのものが「別格」になった感じです。
デビュー曲は、ファンキーなスウィングのリズムに乗せたダンサブルなR&Bナンバー
「つつみ込むように」。
幼い頃からゴスペルに馴染み、デビュー前からみっちりと本場のトレーナーによるヴォイストレーニングを受けていただけあって、その日本人離れしたヴォーカルの迫力は満点。
スタートとしては十分「大成功」と言えるヒットとなりました。
以降も順調にベストテンヒットを重ねてきたMISIA。
そして、デビュー曲とはまったくテイストの異なる、運命の「Everything」と出会います。
イントロから流れる、「並大抵ではない」スケールのバラードを予感させる壮大なストリングスのアンサンブル。
ピアノやエレクトリックピアノも交えながらのサウンドの中、1番を歌い出す前に、ドラマチックな展開を思わせる、歌詞のないヴォーカルがひと声入る。
これだけですでに「つかみはOK!」です。
スタンバイ段階で十分雰囲気を盛り上げておいた上で、Aメロがようやくスタートします。
構成は、「王道」とも言えるAメロ-A-B-C(サビ)。
ただし、これも曲によってそれぞれのメロディーの内容が微妙に異なります。
通常のポップスでは、とにかく「サビ」のインパクトに早く導くために、Aメロ・Bメロは相対的に「軽めに」作られます。
中間部のBメロは、特に。
「軽めに」とは、具体的には小節数を「短く」。
ところがこの曲では、お待ちかねのサビフレーズ
「You're everything~」
にたどり着くまでに、イントロから含めて2分以上かかっている!
テンポが遅いのは、もちろんその大きな要因です。
さらに拍車をかけるのが、途中の「Bメロの長さ」の際立ち方です。
短いアップテンポナンバーであれば1曲終わってしまうほど、じっくりとゆっくりと時間をかけて「最高潮」に持って行っています。
並みの歌唱力の歌手だったら、途中でそこまでたどり着くパワーに打ち負かされてしまいかねないほどですが、この曲では逆に、どんどん先への期待が高まっていきます。
それぞれのフレーズの中で、派手に上下動を繰り返し、低音域から高音域までを巧みに織り込んでいるメロディーラインの秀逸さがそれを支えているのは、言うまでもありません。
コード進行も、逐一細かくは述べられませんが実に高度で複雑。
さらにエンディングではキーを「+1」させて、さらなる盛り上がりを演出しています。
ラストはヴォーカルだけが残されて、そこはかとない余韻を漂わせる…
MVの秀逸さも含め、一編の短編映画でも見せられたかのような「重厚感」が、余韻として漂います。
「紅白」にも「特別枠」として出場し、アフリカの砂漠からの中継で歌ったり、昨年はこの曲の別アレンジで紅組のトリを飾ったり。
ここでも「別格感」を遺憾なく発揮しています。
その後も、スケール感あるバラードを何作か発表していますが、現在も「絶対的な代表作」 となっている楽曲と言えます。
「肌ざわりの良い」はOKだが、「耳ざわりの良い」は明らかに違うでしょ?!
メディアで流される言葉には、少しでも印象を良くしようとの意図からか、あえて表現を言い換えようとしているケースがあります。
以前取り上げた記事で言えば、
「好き」に対してあからさまに「きらい」では角が立つので、あえて「苦手」と言い換える、
あるいは、
「におい」という表現は漢字で書くと「臭い(=くさい)」とも読めてイメージが悪いので、仮に「良い」がついても「イイにおい」とは言わず「イイ香り」と呼ぶようになっている、
などです。
厳密にはこれらとは違いますが、最近某番組で
「耳ざわりの良い」
という言い回しが使われている場面に遭遇しました。
話の流れから、この場合の「音」とは主に「音楽」のことを指しているようでした。
「聴いていて心地良い音」のこと、という意味で。
あるいは川の流れる音や、鳥のさえずりなども同様に含まれるかもしれません。
その出演者はきっと、「肌ざわりの良い」と同じ意味合いで、そうした表現を使ったのかと思われます。
しかしこれは、時代の変化云々の問題とは別次元で、決定的に間違っている表現だと思います。
漢字で書いてみて考えれば、その違いは明らか。
「肌ざわり」は「肌触り」、つまり肌の感触のこと。
ですから「肌触りが良い」「肌触りが悪い」双方使えるわけです。
ところが「耳ざわり」を漢字にすれば「耳障り」。
これだけで「耳に障る」、つまり「聴き心地が良くない」という意味になります。
「耳障り」に良いも悪いもないのです。
これが仮に「耳」でなく「目」だったら、こんなことにはならなかったのかもしれません。
「目ざわり」は、間違いなく「目障り」。
「おぃ、目障りだ!あっち行け!」的に使う言葉であることは、ちょっと考えれば明らかなこと。
その時の発言者がいいトシをしたオトナの音楽関係者だったので、思わずビックリしてしまいました。
2か月前にも、似たような流れでこんな記事を書きました。
改めて…
「爪痕」とは災害や不幸ごとなど「好ましくないこと」の痕跡。
それが、
「爪痕を残せるように、頑張ります!」
のように、「良い実績」を残す際にも使われるようにもなった。
「インパクトを残す」という意味では同じであっても、「足跡」は大いに歓迎。
しかし「爪痕」はゼッタイに残して欲しくないと、個人的には強く思うのでした。
そもそも「ツメアト」なんて、痛いばかりだしキズが残ってイヤじゃないですか!
「耳ざわりの良い」などという言い回し自体が「耳障り」とも言えます。
ところが、最近活字上で「耳ざわり」をどうしても「肌ざわり」同様に使いたいらしく、本来の正しい漢字をわざわざ「耳触り」に変えた上で「耳触りの良い」と書かれている例に遭遇し、ビックリしました。
「みみざわり」と入力しても、そんな漢字変換候補は出てきません!
これに違和感を抱かない人は、美しい風景を見た時に、同じ感覚で「目触りが良い」などと言うのでしょうね?
では、その人の意図を汲んだ表現をしたい時には、なんと言ったら良いか?
「聞き心地の良い」
あるいは
「耳当たりの良い」
などで十分通じるのではないでしょうか?
自称「音楽人」は、耳にはこだわりが強いのでありました。
【ちょっと懐かしい番組を振り返る】(ネタあり)「へぇ~!」連発のバラエティー番組の元祖?!「トリビアの泉~素晴らしきムダ知識」
フジテレビ系列で、2002年から特番も含めて約10年間放送されていた番組です。
当初は深夜の30分番組だったのが、好評につきゴールデンタイムに昇格。
毎週水曜日21時からの1時間番組になってから、定期的に見るようになりました。
この番組のメインコンセプトと言えば…
「日常生活上何の役にも立たないが、つい人に教えたくなってしまうトリビア(雑学・知識)」
を、一般視聴者に募集して集め、トリビアプレゼンター(MC)を務める高橋克実と八嶋智人がVTRで紹介。
「品評会会長」であるレギュラーのタモリとゲスト会員らが品評していく、というスタイルでした。
番組タイトルの「trivia(トリビア)」とは、日本語で「雑学・些末な」という意味。
この番組で、「トリビア」という言葉を初めて知りました。
また「泉」については、「トリビア」と名前の似ている「トレビの泉」から、「トリビアの泉」という番組名が生まれた、とされています。
番組ではトリビア紹介VTR が終わった後、その評価=「びっくり度」をゲスト席の机にある「へぇ~ボタン」を押して行うのが、演出上の大きな特徴でした。
ボタンは何度連打してもOKで、品評会会長とゲストの押した合計点でトリビアのスコアが決まります。
今になって振り返ると、
現在ゴールデンタイムで「バラエティー番組」として放送されている番組の企画元は、すべてこの「トリビア」が元祖なのではないか?
と思う時があります。
当時から、取り扱う「素材」はすべて「トリビア」。
現代版では、それらを「受けたい授業」「この差って何」「教えてもらう前と後」「3割しか知らない」など、「冠」となる名称やスタイルを変えて流しているだけ。
国内だけではネタが尽きてくると、今度はよその国から面白ニュース映像を借りてくる。
そして「世界まる見え」「ありえへん世界」「世界の衝撃映像」としてオンエアする。
考えてみると、企画自体には何のオリジナリティーも感じられません。
いくら「調味料に工夫を凝らしても、もとの食材がおいしくなければ良い料理とは言えない」のと同じ気がします。
ネタとなるアイディアを一般視聴者から募るコンセプトの先駆けでもあったような気がします。
「トリビア」をシンプルに紹介して、シンプルに「へぇ~ボタン」を押す。
「品評役」のゲストも、確か3~4人いるだけだったと記憶しています。
MC2人が、ただひたすらネタを紹介するだけ。
そんなシンプルな構成でも、MCのキャラクターや、タモリはじめゲストのショートトークだけで、十分面白かった。
料理同様、番組ネタも「素材」が命!
やはり、「オリジナル」は強かった!
【懐かしい歌No.64】「手紙~拝啓 十五の君へ~」アンジェラ・アキ(2008)
ステージでメガネをかけ、ピアノを前に躍動的に弾き語りをする姿が強いインパクトを与えるシンガー、アンジェラ・アキ。
どちらもファーストネームのような名前ですが、婚姻前の本名は、安藝 聖世美 アンジェラ(あき・きよみ・あんじぇら)、つまり「あき」は苗字。
アメリカ人を母に持つ彼女ですが、日本風に言えば「安藝 聖世美」。
(だいぶイメージが変わりますね)
アーティストネームも、ほぼ本名なのです。
あの「濃い」顔で、いざしゃべると徳島弁というのも、なんだか親しみが湧きます。
それはさておき…
2005年に「HOME」でデビュー、翌年この曲で紅白に初出場。
2008年に発売された8枚目のシングル、この「手紙~拝啓 十五の君へ~」がロングヒットとなり、紅白でも2回連続で歌われています。
そして何と言っても、
「第75回NHK全国学校音楽コンクール 中学生の部の課題曲」
つまり「合唱曲」として採用されたことが、この曲の大きな特徴です。
もともとそうしたコンセプトで制作されたのか、曲がリリースされてから評判が高まって使われるようになったのか…
最近は、手書きで「手紙」を書く機会はほとんどなくなりました。
そんな時代だからこそ、二度と戻らない15歳の世代に悩み多きタイムスリップして、未来の自分とメッセージを交わすコンセプトが、聴く者に共感を与えたのではないかと感じています。
曲調をあえて挙げるなら、ミディアムなバラードナンバーということになるのでしょう。
バラードというと、これまでの曲紹介でたびたび触れているように、本当はもう少しテンポが遅く、かつ楽譜上は16分音符主体のメロディーラインとロングトーンとの「コントラスト」で構成されているのが通常のスタイルです。
ところがこの曲の場合は、ピアノがアルペジオをバックにして、8分音符主体の流れをサポートしています。
歌う部分のメロディーも、「極端に長い音」もなく、「極端に細かいリズムの音」もなく、一貫して8分音符がずっと続いていきます。
「弾き語り」を前提にしなければ、出来上がらなかったアレンジとも言えそうです。
さらに、バックサウンドとして定番といえるドラムが、この曲には使われていません!
これほど首尾一貫してピアノを主体にしたサウンドは、最近の曲ではかなり珍しいです。
そして、2番が終わったあと突然キーとリズムパターンがガラッと変わるDメロに驚かされます。
まったく別の歌をジョイントしたかのような、大胆なコントラストです。
そこから戻って一瞬静かなサビフレーズへ移行するところが、この曲のスパイスとなっています。
さらに、通常はサビで盛り上がって終わるのが一般的な楽曲構成であるところ、冒頭Aメロに戻って消え入るように終わるところが、聴く者に静かな余韻をもたらしています。
冒頭はルックスに触れましたが、ほぼピアノだけのアレンジでここまで聴かせられるのは、やはり作品としての完成度の高さに加えて、彼女自身の天性の美声とパワフルかつ繊細な表現力によるものが大きいと思います。
演奏するアクションが派手なだけでなく、鍵盤に込められる各々の指もパワフルであることが感じ取れます。
自分の15歳の時に、ふと思いをはせてみたくなる曲です。