さえわたる 音楽・エンタメ日記

オリジナル作品紹介、歌の解説、ヴァイオリン演奏、言葉の使い方、エンタメニュース、旅行記などについて綴っています

【懐かしい歌No.72 ふるさとを想う温かい気持ちを胸に】「驛舎(えき)」さだまさし(1981)

本日の歌は、さだまさしが1981年に発表した「驛舎」(えき)です。

 

当初は「グレープ」という2人組ユニットでデビュー。

1974年に精霊流しがヒットし、その名を知られるようになりました。

当時ステージでヴァイオリンを弾きながら演奏する姿は、はやり歌の世界では珍しく、同じ楽器を演奏する者として興味を惹かれました。

 

以降、グレープとしては「朝刊」「無縁坂」などがヒット。

 

1976年にソロ転向してからも、歌詞の内容が一種の物議を醸し社会現象にもなった「関白宣言」をはじめ道化師のソネット」「防人の詩などのヒット曲を世に送り出しました。

 

そんな中、現在一番世の中に知られているのは、歌詞のない「ア ア~ アアアアア~」=北の国から」のテーマかもしれません。

 

楽曲から受けるイメージとは対照的に、陽気なおしゃべり好きのキャラクターで知られ、ライブでは3時間のうち1時間またはそれ以上がMC。

その内容はほとんど漫談や落語の域に達しており、落語家が師匠に

さだまさしのコンサートに行って、話芸を勉強して来い」

と命じたという、本当か冗談かわからないエピソードがあるほど。

 

いろいろな話題作・名作を生み出している彼ですが、個人的に最も印象に残っているのがこの曲です。

 

この「驛舎」(えき)は、都会から帰郷した女性を、ふるさとで待っていたであろう男性が田舎の駅で待っている情景を描いたものです。

慣れない環境の都会で、言い知れないいろいろな苦しみを味わってきたであろう、小さな包み2つだけの手荷物を抱えて戻って来た彼女を、地元の駅で待ち、言葉をかけながら温かく出迎える。

 

「ゆうべ一晩 泣き続けていたような そんな目をしてる」

「ふるさと訛りの アナウンスが今 ホームを包み込んで」

「都会でのことは 誰も知らないよ 話すこともいらない」

「驛に降り立てば それですべてを 忘れられたらいいね」

具体的な情景がすべて詳しく説明されているわけではありませんが、個々の言葉になんとも言えない優しさがあふれています。

 

結びの歌詞は

「改札口を ぬけたならもう ふるさとは春だから」

季節も確かに春なのかもしれませんが、都会での「冬」を乗り越え、懐かしい故郷に帰って来て、心も身体も暖かい「春」に包まれている、そんな風にも解釈できます。

タイトルに使われている旧字体の「驛」も、ノスタルジックな印象を与えています。

 

アコースティックギターとピアノのアルペジオ・ストリングス主体のスローテンポなバラードタッチの曲調も穏やかで、(本人作詞・作曲なので当然と言えば当然ですが)言葉とメロディーが美しくマッチしています。

 

www.youtube.com

 

【週刊はてなブログ様の威力恐るべし!】「人気記事ランクイン」という「アクセス増第3のパターン」。hatenablogからのIDコール・言及の正体は、あの「釣り(?)記事」だった?

「さえわたるブログ」は毎日更新が基本のため、その運営状況は

良くも悪くも「巡航速度の安定推移」です。

 

コンスタントに読んでいただけているとも言えますし、逆に言えば「低位安定」状態です。

「今日は会心の記事が書けた!ウケるかも?」と意気込んだ日に限って、思ったほど読まれない。

何事も、「気負い」があるとたいていダメなのです。

「お前は、ブログを『自分のために書いている』んじゃないのか?!」

もっと自分を戒めなければなりません。

アクセスを「狙って」の執筆など、はなから出来るものではないと知るべきなのです。

 

ごくまれにその動きに「異変」があるとすれば、文字通り「忘れた頃にやって来る」(やっても来ない?)

はてなブックマーク人気・新着エントリー」

への掲載です。

たまに「襲来」を受けると、思わぬ「ご褒美」に胸躍らせて、つい「明日もあさっても!」などと空疎な期待を抱いてしまうのです。

世の中、そんなにうまく運ぶものではないのです。

 

「スマニュー砲」の存在も知りましたが、インパクトが大きい分、その「発生確率」は体感的には「はてブ」の何十分の1もありません。

 

予期せぬ「思わぬ外的パワー」は、この2つだけ。

他には体感したことがありませんでした。

ところが昨日、上記2つに続く

「第3のパワーの源」の存在を知ることとなりました。

 

きっかけは、毎日何度となく見ている記事作成ページ右上にある

あなたへのお知らせ欄でした。

 

いつもは読者の方々からのレスポンス状況が届いて赤マルの数字が灯るこの欄に、昨日「hatenablogさんから・・・IDコールがありました」の通知が。

ほどなく、

「hatenablogさんから・・・言及されました」と立て続けに。

 

f:id:saewataru:20200616130605p:plain

(サンプル画像です)

 

「IDコール」や「言及」は、実はそれほど珍しいことではありません。

ありがたいことに、私の記事を引用して(まさに「言及して」)ご自分の記事につなげて下さるブロガーさんの存在があります。

ところが今回、この通知の「送り主の名前」に、一瞬目を疑いました。

 

ブログ開設以来初めての「事務局」からの通知です。

反射的に「良からぬこと」が頭をよぎりました。

知らぬ間に何かしらの利用規約ガイドライン違反を犯していて、その警告メッセージではないか?と。

これまで山あり谷ありながら細々と続けて来たブログ活動が、もしかしたら続けられない事態に陥るのではないか?と。

 

恐る恐る、メッセージ部分をクリックしてみました。

すると、通知の主は週刊はてなブログ様」でありました。

 

これまた毎日必ず見ている

ダッシュボード」⇒「マイブログ」のページ右側にある「お知らせ」。

この中の「週刊はてなブログ」に、

「今週のはてなブログランキング(2020年6月第2週)」

のコーナーがあります。

 

f:id:saewataru:20200616123228p:plain


正直なところ、

ブログランキング」の存在を意識したことはありませんでした。

「購読中のブログ」ページの下部には

「まずは公式ブログの読者になってみましょう」との勧誘もあります。

読者登録者数、なんと24000人以上。

このうちどれだけの人数が実際に活動し、記事を執筆しているかはわかりません。

しかし、仮に半数とカウントしても、10000人規模の人たちが記事を載せていることになる…

だとしたら、「母数」があまりにも大きすぎて、ブログランキングが掲載されていることがわかっていても、自分にはまったく無縁のモノとしか思えません。

 

はてなブログ独自の集計による人気記事」と断り書きされたそのランキングを開いてみると・・・
1週間前に書いた私の記事が、4位にランクインしていたのです。

 

これが「IDコール」「言及」の正体でした。

 

ブックマーク数の多い記事が並んでいますが、必ずしも多い順にはなっていない。

スターの多い順にもなっていない。

そこが「独自の集計」たる所以なのでしょうが、かなりの程度ブックマーク数に依存しているものであることは見てとれます。

 

f:id:saewataru:20200616124307p:plain


その記事が、これです。

saewataru.hatenablog.com

 

有名巨大ブロガーさんからすれば、打ち明けるのも恥ずかしい話ではありますが…

私にとっては、1年3か月にわたって450以上の記事を書いてきた中で「最多のブックマーク」を記録した記事でした。

 

ただ、このブックマークのほとんどは、毎日丁寧に拙稿を訪問下さるレギュラーの読者各位ではなく、「瞬間風速」的に私の記事を通り過ぎていく一般の読者によって、「その日限り」でもたらされたものでした。

当然、ID名も初めて見るものばかりです。

 

タイトルからもご想像がつくように、また内容を読んで下さった方はすでにおわかりのように、この記事は当初からあえて「皮肉」をこめて書いたものでした。

 

実は、そのすぐ前日に書いた記事にも、私のレベルとしては考えられないほどの数のブックマークコメントが寄せられていました。

 

saewataru.hatenablog.com

その中身は、まったく一緒です。

ブックマークコメント欄には、個人的には「誹謗中傷レベル」としか思えないような文章が多数並びました。

規模はごくごく小さいながら、「個人の感想」としては「炎上」状態になりました。

 

確かに、ツッコミどころ満載の記事だったかもしれない。

それでも、「なぜこんなに批判されなければならないのか?」と正直腹立たしくなってしまいました。

そうしたコメントを書くのはどんなブログ記事を書く人たちなのだろう?と、興味本位でIDを個々にクリックしたりもしてみました。

すると・・・

「自身では記事を執筆しておらず、他人の記事をブックマークしてひと言コメントを呟く」だけの活動を行っている、いわゆる「ブクマ民」と呼ばれる人たちが大半であることがわかりました。

 

コメントの中身など見なかったことにすれば良いのですが、ここまで書かれるとやはり気持ちが収まりません。

かと言って、個別に反論メッセージを送ることはシステム上出来ないし、そもそもそんなことに労力を費やすのもおとなげないし、バカらしい。

 

f:id:saewataru:20200616191701p:plain

そう割り切ればOKなのに・・・

よせばいいのに・・・

私の記事やレギュラー読者各位とのやりとりを「互助会」と揶揄する彼らに、

「あなた方のブックマークコメント、面白過ぎましたよ!」

と一括返信する内容の記事を執筆してしまいました。

「どんなネガティブなコメントであっても、それでアクセスが伸びることにつながるのだから、こちらとしては平気。むしろ喜ばしいことですよ」

とのメッセージを込めたのです。

 

すると、またも「ブクマ民」の皆様(前日とメンバーは異なります=個別には未確認)のコメントが相次ぎました。

「第1波」を超える炎上状態となりました。

その中には「釣り記事だとしたら天才!」とのありがたいコメントもありました。

「天才」のお褒めまでいただいてしまいました!

それだけでなく、上述同様「あなたからのお知らせ」欄に見知らぬIDコールがありました。

ご丁寧なことに、私の記事を引き合いに出しての「批判口調のブログ記事」まで書かれていました。

 

こうした経緯で反響を呼んだ結果が、今回のランクインでした。

 

昨日の記事は「はてブ」砲がなかったにもかかわらず、ふだんの「実力」をはるかに上回るアクセスがありました。

ブックマーク数もスター数も、いつもに比べて決して多くはない。

当然「スマニュー砲」もない。

その因果関係は検証のしようもありませんが、どうみても「今回のアクセス増はこのランキングイベントによるものとしか考えられない」と、勝手に想像しています。

 

とは言え、その動機もやり方も決して「健全ではない」!

ストレス発散的な対応をした、おとなげなかった自分に反省もしています。

でも、もう過ぎたこと。

炎上気味だったとは言え、「反響を呼んだ」と事態をポジティブに捉えようと考えています。

 

「人気記事ランクイン」などというありがたい評価は、まさに「最初で最後」。

ブログライフ上の「一生の思い出」として、画面のスクリーンショットを「永久保存」しておきました。

 

タメ口会話の方が気軽なはずなのに、いっそ敬語で通した方がラクだと思う時

外国人に日本語の難しさを問うと、大きなポイントが2つあるようです。

ひとつは、文字に「漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベット」が混在しており、特に漢字の読み書きが大変なこと。

そしてもうひとつは、状況に応じた「敬語表現」が多彩で複雑なこと。

 

敬語については、母国人である日本人でも、的確に使いこなせている人は少ないと感じます。

使うには神経を使い、面倒で煩わしい敬語。

それなら、敬語抜きですべて「タメ口」でしゃべれれば、会話はずいぶんラクなものになりそうです。

 

しかし、自分の記憶をたどると、あらゆる場面でそれが通用したのはせいぜい中学生ぐらいまでだったような気がします。

 

半年ほど前「名前を呼び捨てで呼び合える間柄」についての記事を書きましたが、会話での言葉遣いもそれにリンクしていると感じます。

saewataru.hatenablog.com

すなわち、

「呼び捨てやくん・ちゃん付け」の関係であれば、ふだんのしゃべりはタメ口になります。

ところが高校で部活に入ると(場合によっては中学から?)、それまで生きて来た人生の中で初めて「目上」の存在を意識することになる。

たとえたった1つの年の差でも、1年生にとって2年生は敬語を使うべき「絶対的先輩」になります。

 

では、年齢が上であれば敬語表現は必須か?というとそうでもなくて、出会った際の関係がモノを言う世界なのだと思います。

 

たとえば、大学に入った際、クラスにいた「浪人生」は当然自分より年上。

もし彼らと別のきっかけで高校生の時に出会っていたら「先輩」になりますから、敬語対象者だったことでしょう。

でも、出会いの時点ではあくまで「同級生」としてですから、いくつ年上であっても扱いはそれまでのクラスメート同様自然に「タメ口会話」になります。

f:id:saewataru:20191207060429p:plain

 

社会人になると、「タメ口・敬語」の境界線が一気に複雑化します。

 

同期入社の仲間たちは、出会いのきっかけが学生時代の同級生と同じ。

ですから、それと同じ感覚で「タメ口」会話が普通でした。

 

最初に困ったのは、職場にいた「年下の先輩」

それまで敬語使いのポイントは年齢(学年)にありましたが、それが通用しない事態に初めて遭遇したわけです。

そこでは、年齢より「社歴」の方が重要でした。

年下の人に、初めて「敬語」を使うことになった瞬間でした。

 

それがもっと複雑になったのは、何年かごとに行われる部署異動や転勤です。

その部署では、自分は何も知らない「新任」の立場。

年齢関係なく、以前からの部署にいる人たちはみな「先輩」になる。

たとえ自分がある程度上の肩書をもって「上司として」着任したとしても、です。

 

仮に立場が上と言っても、その部署のことは何も知らない。

従って、「部署では先輩」のスタッフにいろいろと教えてもらわなければならないことがたくさんあります。

そんな時、相手が年下だから、あるいは部下だからと言って、いきなりタメ口で話すのはなんとも横柄な気がして、私はためらってしまいました。

 

最初は、おそるおそる敬語でしゃべってみる。

慣れてきて、どこかのタイミングでタメ口にチェンジ出来たら、その後の付き合いはフランクになり、やりやすくなるかもしれません。

しかし、そのタイミングを見計らうのは、相手のキャラクターによってさまざま。

口で言うほど簡単ではありません。

結局、「出会った時のお互いの関係」をずっと引きずることになる。

「この人とは、ずっと敬語使いでいいや!」と割りきってしまいたくなることもあります。

 

これが社外の取引先になったりすると、タメ口のハードルはぐっと高くなります。

 

自分がお客の立場で、営業の相手が新卒に近い担当者であるような時。

周囲を見ていると、自分がある程度の職位を持っている人は、たとえ社外の人間であっても、のっけから「やぁ、〇〇くん」的な言葉遣いをする人が少なくありません。

その方が親しみがあって良いのかもしれません。

でも私は「会社対会社」の意識が先立ってしまって、なかなかそれがスムーズに出来ない。

どうみても新卒に毛が生えた程度、としか思えない若手社員でも、最初は「敬語」で対応します。

f:id:saewataru:20191207060835p:plain

会社同士の付き合いでなくても、たとえば

お店で買い物をする時の店員さんとの会話

の時も同様です。

 

こちらは明らかにお客。

相手は店員、しかもどう見ても自分よりは年下。

お客なのだから、もっと「堂々と」エラそうに(?)ふるまっても良さそうなシチュエーションです。

実際そういう場でシニアの人たちを観察していると、はなから敬語表現を捨て去っている人がけっこういます。

 

それでもまだ私は、たとえそうした関係にあっても、初対面の人にいきなりタメ口でしゃべることは難しいのです。

お店での一期一会の出会いに、タメ口で話すほど親しくなることを求めていない面もあります。

しかしそれ以上に気持ちの持ちようとして、「タメ口の糸口を探そうとするより、いっそ敬語で通した方がラクと思ってしまう自分がいます。

 

堅苦し過ぎる考え方なのでしょうかね?

ブログとの付き合いは「人生でおカネより大切な『時間』を有意義に使う」ことに本当につながっているのか?~愛読者の立て続けの「退場」に接して思う

昨年3月にブログを開設して以来、

「ブログ投稿日数:441日」

そして、

「投稿記事数:452」

が現時点での実績です。

 

ずっと「毎日連続更新」を目標に、書き続けて来ました。

それがまる1年達成できた時の記事です。

 

saewataru.hatenablog.com

 

その後も、開設日からずっと「ブログ投稿日数」イコール「連続更新日数」に設定したかった。

しかし、その目標は「連続400日」であえなく途切れてしまいました。

 

saewataru.hatenablog.com

 

直接の原因は、何年かぶりに見舞われた発熱を伴う「体調不良」によるものでした。

しかし、それ以外にもさまざまな要素がありました。

 

簡単にまとめれば、「ブログ活動継続」によって

  • 自分の「生きる証」=「ライフワーク」とも言える音楽制作活動に充てる時間に影響が出始めていた
  • 離れて暮らす大切な家族とのコミュニケーションが疎かになっていた
  • 仕事中も、その日のアクセス状況や翌日のブログ記事探索に気を取られる「本末転倒の事態」に陥りかけていた

「これではいけない!」と、まさに「断腸の思い」で自ら目標を「途切れさせた」のです。

 

まずは身体的な「体調回復」。

精神面で今後のブログライフの見直しを図る。

さらに、音楽活動の軌道修正を行う。

そのために、2週間の「充電=休養期間」が必要でした。

 

当時は、「連続更新記録」も潰えたし、そのままフェイドアウトする気持ちもありました。

しかし、実はその時点で大量の「予約投稿記事」が蓄積されていました。

「せっかく書いたのだから、その分だけは公開して、それでネタが尽きたら『その時はその時』でまた考えよう」と内心思っていました。

 

そして、先月5日にブログを再開。

随時「予約投稿記事」を織り込み・修正しながら、今日が「連続投稿42日目」の記事になります。

saewataru.hatenablog.com

 

上記のリンクでは、「限定的に活動再開」とタイトルを打っています。

この時点では、

「記事の執筆は『連続』にこだわらず、ネタを思いついた日だけでイイや」

そう考えようとしていました。

 

と言うのも、「休業」期間に、それまでブログ関連に費やしていた時間を想っていた時、
「人生において、おカネよりずっと大切な『時間』を、本当に正しく使っているのだろうか?」
と自問自答するひとときがあったからです。

 

 

ところが、実際書き出してみると、再び「書きたい衝動が山のように押し寄せてくる」のを感じるのでした。

純粋に、ただただ「自分は書くことが好きなのだ」という気持ちを再認識したのです。

 

このブログは、どこかのどなたかのように「貪欲に収益を目指す」ものにはなっていません。

稼ぐためのノウハウやテクニックを必死になって調査・研究することに時間をかけているブログでもありません。

 

「ブログでこんなに稼いでいます」の活動実績報告記事に書かれているのは、たいてい「華やかな面」だけ。

もし記事の内容が真実であると仮定しても、稼ぐためにどれだけの労力や時間をかけているかの「裏事情」「真の費用対効果」については、一切触れられていません。

ブログに限らず、何によって稼ぐにしても、短時間でラクな道などひとつもないことは容易に理解出来ます。

  

ですから、ブログに向き合う気持ちはきわめて「気楽」な立場でいられます。

「毎日連続して書いたからと言って、誰に褒められるものでもない」

「仕事ではないのだから、サボったからと言って誰に咎められるものでもない」

 

それでも、題材が思い浮かぶと、最初はその要旨をメモに書き留めるだけなのですが、やはり「文章としてまとめたくなってくる」。

それを繰り返しているうちに「予約投稿」記事が蓄積していき、連続更新…

現在そんな流れになっています。

やっぱり、好きなのです。

 

ただひとつ、ブログは「個人的な日記」とは異なり「不特定多数の読者の存在」が前提にあります。

読者の方々とのつながり=ブックマークコメントやスターを通じたつながりが、記事を書き続ける上で大きなモチベーションとなっています。

 

それがややオーバーヒートして、

ごくたまに記事が「バズる」と、そこにはネガティブなコメントもたくさん寄せられることがあります。

そんな状況をネタにしようと書き記した記事がまたバズり、個人的に執筆史上最高の反響を呼んだりもしました。

saewataru.hatenablog.com

当初は、そうしたコメントに軽く傷ついたりもしましたが、最近はさまざまな意見を楽しめる余裕も生まれて来ました。

その意味で、これもまたモチベーションアップにつながっています。

 

ところが、一方で「悲しいイベント」も起こります。

 

長年記事の愛読者で、私の記事にも毎日ご訪問を続けて下さっていた「やまむu」さんが、昨晩の記事において、連続投稿500日を節目としての一時休業を宣言されました。

記事を拝見する限り「完全引退」ではないようですが、しばらく充電なさるそうです。

記事内容にあった「休業に至るプロセス」が、あまりにも共感できるものだっただけに、

「マイ・ブログライフを『勢いのままに』続けていて良いのだろうか?」

と再び考えさせられてしまいました。

 

yamahome.hatenablog.com

 

さらに数日前の話ですが…

現在活動中の読者の中で最古参のお付き合いだった「ken-j」さんも、ブログ開設後450日以上の連続更新記録をお持ちになりながら、今月3日の投稿を最後に「先の見えない」充電期間に入られる、との連絡がありました。

 

www.ken-j.work

 

日々の食事のように、毎日当たり前のように必ずやりとりをしていた大切なブロガー仲間が、ひとりまたひとりと表舞台から離れていく…

それまでのつながりが深く長かっただけに、非常に大きなショックです。

 

それでもありがたいことに、毎日この拙い記事を「楽しみにしています」と思っていて下さる方々、実際に必ずレスポンスして下さる方々がいらっしゃる…

それが、大きな支えになっています。

と同時に、

「ブログとこのような形で付き合うことが、本当に有意義な時間の使い方につながっているのだろうか?」

そんな思いもよぎります。

 

幸い「予約投稿」のスケジュールは相当先まで埋まっているので、表向きは「毎日元気に」過ごしていますが、そのウラで複雑な思いと闘っている「もうひとりの自分」がいます。

「略称」で呼ばれる芸能人たち~「苗字のみ」「下の名前のみ」「苗字・名前の混合型」

有名芸能人になると、フルネームではなく「略称」で呼ぶケースが出てきます。

ただ、そのパターンは大きく分けて3つあります。

  • 苗字だけで呼ばれる(+くん・ちゃん付け)
  • 下の名前だけで呼ばれる(同上)
  • 苗字&名前の「混合型」で呼ばれる

 

先日は、「親と違う苗字で活躍する2性芸能人」を列挙しました。

saewataru.hatenablog.com

 

今日は「名前の呼ばれ方」について、歌手をメインに思いつくまま列挙してみます。

 

f:id:saewataru:20191205165005j:plain


 まずは「時を超えた大物」から。

 

矢沢永吉は、下の名前で「エーちゃん」です。

「やざわ」と呼ぶ人をあまり聞いたことがありません。

逆に、尾崎豊は圧倒的に苗字オンリーで「オザキ」。

サザンオールスターズ(これもほとんどの人は「サザン」と略す)の桑田佳祐は、苗字で「クワタ」あるいは(世間的には、元巨人の桑田も有名なので)「サザンのクワタ」と呼びます。

下の名前だけで呼ばれるのを聞いたことはありません。

松任谷由実は、下の名前が変化してもはや第二の芸名とも言える「ユーミン」に(Yumingとも表記される)。

「マツトウヤ」と呼ぶ人はまずいません。

山下達郎も下の名前で「タツロウ」であり、「ヤマシタ」と略す人は聞いたことがありません。 

中島みゆきは、「ナカジマ」でも「ミユキ」でもなく、なぜかフルネームです。

 

70年代前半。

「マリちゃん」というと、70年代前半にアイドルとして一世を風靡した天地真理を指すのが一般的でした。

少し先輩に、同じく歌手の園まり・辺見マリ夏木マリなど同じ名前の人物がいましたが、その中でイメージ的に「ちゃん」付けできるのは彼女だけだったのかもしれません。

 

70年代後半。 

かつて「新・御三家」と呼ばれた郷ひろみ西城秀樹野口五郎

西城秀樹は、下の名前「ヒデキ」として親しまれました。

先輩芸能人に、今も現役の俳優・高橋英樹いましたが、彼を「ヒデキ」と呼ぶ人はおらず、フルネームでした。

愛称で呼ぶには恐れ多かったのでしょうね。

「ゴロー」と言えば、SMAP稲垣吾郎が登場するまでは、野口五郎を呼ぶ愛称でした。

稲垣吾郎には「ゴローちゃん」と、「ちゃん」が付けられました。

郷ひろみは、同世代に太田裕美岩崎宏美という同名の女性歌手がいたため、フルネーム、または時に「ヒロミゴー」と呼ばれていました。

 

代表的なジャニーズ系。

SMAP

中居正広は、苗字で「ナカイくん」。

「マサヒロ」と呼ばれるのを聞いたことがありません。

木村拓哉は、言うまでもなく「キムタク」、苗字と名前の混合型です。

香取慎吾は、数多い「しんご」の中から「シンゴちゃん」の愛称を獲得しました。

古くは山城新伍から、風見慎吾鶴見辰吾柳沢慎吾・藤森慎吾オリエンタルラジオ)などなど、たくさんの「しんご」がいた中で、です。

ちなみに、同じジャニーズからは後に関ジャニ∞村上信五がデビューしていますが、「シンゴちゃん」の座は譲られず、彼は「ムラカミ」と呼ばれています。

草彅剛も、苗字の珍しさからか、はたまたKinki Kids堂本剛(同じ「つよし」)がいるせいか、「クサナギくん」です。

 

TOKIOは、城島茂だけが名前代わりに「リーダー」と呼ばれることがありますが、その他のメンバーは特別な「もじり」はなさそうです。

 

V6は、井ノ原快彦だけが苗字由来の愛称「イノッチ」になり、あとのメンバーは普通に「苗字+くん付け」、もしくはフルネームです。

 

Kinki Kidsは同じ苗字なので、例外的に「下の名前」で呼び分けるしかありません。

 

 は、松本潤が「マツジュン」=苗字+名前の混合型。

二宮和也が「ニノ」で、苗字の略称。

大野智は時に「リーダー」と呼ばれたりもしますが、通常は「苗字+くん」付け。

櫻井翔相葉雅紀も同様です。

 

以降のジャニーズアイドルも、ほとんどは「苗字+くん」のスタイル。
「特有」の呼び方が定着するほど、「個人としての」一般的知名度がまだ高くなさそうです。

 

80年代の女性トップアイドル編。

松田聖子中森明菜は、ほぼ間違いなく「下の名前」派。

あくまで「セイコちゃん」「アキナちゃん」であり、「マツダ」「ナカモリ」と呼ぶ人はいません。

小泉今日子も、下の名前をもじって「キョンキョン」に。

彼女がいたために、深田恭子は同じ「きょうこ」でも「深キョン」になったのです。

中山美穂も、下の名前から「ミポリン」と呼ばれていました。

ところが、同じアイドルでも荻野目洋子は「オギノメチャン」と苗字でした。

姉に女優・荻野目慶子がいたにもかかわらず、です。

同じ「ようこ」だからでしょうか、同時期に活躍した南野陽子も、苗字をもじった「ナンノ」でした。 

 

そして、時は90年代。

安室奈美恵=「アムロちゃん」は、女性歌手で苗字が愛称になった珍しいケースです。

浜崎あゆみは、下の名前から「アユ」。

宇多田ヒカルは略称がなく、記憶の限りではフルネームです(あえて言えば、苗字のみ?)。

 

90年代後半、初期のモーニング娘。では、

安倍なつみが「ナッチ」。

後藤真希が上下混合型で「ゴマキ」。

後藤久美子=「ゴクミ」がすでにデビューしていた)

加護亜依辻希美は、苗字そのままで「カゴちゃん」「ツジちゃん」でした。

「あべ」「くぼ」「ちば」などと同様、2文字苗字によくある呼ばれ方です。

それ以外のメンバーの特別な呼ばれ方は、記憶にありません。

 

21世紀に入り、AKB48の黄金期=「神7」時代。

前田敦子は「アッちゃん」。

渡辺麻友は、同じく下の名前から「まゆゆ」。

高橋みなみは、混合型で「タカミナ」でした。

同じく小嶋陽菜も混合型「コジハル」。

小島瑠璃子が「コジルリ」に)

大島優子板野友美、その他のメンバーにもファン特有の愛称があったのかもしれませんが、詳しいことはわかりません…

そんな中、指原莉乃だけは苗字で「サッシー」または「サシコ」になっています。

 

f:id:saewataru:20200608090716j:plain

以上、ほんの一部ですが例示してみました。

 

これらの呼ばれ方に決まった「法則」はなく、呼びやすさやイメージでそうなったのでしょうが、どうしてそのパターンになったのか、ちょっと不思議ではあります。

 

ひとつだけ明らかに言えるのは、

「芸能人として相応の人気・知名度を得ないと、愛称で呼ばれるには至らない」

という点でしょうか。

【懐かしい歌No.71 歌手活動集大成のミディアムバラード】「ただ泣きたくなるの」中山美穂(1994)

女性アイドル全盛の1980年代をリードしたトップアイドルだった中山美穂

中1の時に「原宿でスカウトされた」のが芸能界入りのきっかけだったというエピソードも、いかにもアイドルらしいシンデレラストーリーです。

 

デビューは、まず女優としてでした。

1985年、当時14歳でTBS系ドラマ毎度おさわがせしますにツッパリ少女役として出演。

新人ながら、「型通りの清純派」とはひと味違ったキャラクターを演じ切り、一躍注目を集めました。

 

同年6月、作詞:松本隆、作曲:筒美京平のゴールデンコンビによる作品「C」で歌手デビュー。

同期には、

本田美奈子.南野陽子井森美幸森口博子斉藤由貴浅香唯芳本美代子

といった錚々たるメンバーがいました。

そして、あのおニャン子クラブもこの年のデビュー。

並みいるライバルたちの中、この年の日本レコード大賞最優秀新人賞」を受賞しています。

 

同時期に活躍した工藤静香南野陽子浅香唯とともに、「ポスト・花の82年組」的位置づけで、「女性アイドル四天王」と呼ばれたこともありました。

 

歌手として、1位獲得作品が8作。

1992年に中山美穂WANDS名義で発売された世界中の誰よりきっとがミリオンヒット。

 

初期の作品は、軽快なリズムに乗ったポップな作品主体でしたが、その後「You're My Only Shinin' Star」「ROSÉCOLOR」などのバラード曲も発表し、これらの楽曲も1位を獲得して、彼女の代表作となっています。

 

どの歌も秀作揃いですが、現時点で最新(最後?)の1位獲得曲となったミディアムテンポのバラードナンバーである、この

ただ泣きたくなるの

は、単独名義での初ミリオンヒットとなり、彼女の輝かしいディスコグラフィーの「集大成」とも呼べる作品なのではないかと感じています。

f:id:saewataru:20200612154032j:plain

 

イントロから、格調高いストリングスのアンサンブル。

自分がヴァイオリンをやっているからかもしれませんが、弦楽器の合奏を主体としたアレンジは、楽曲全体に「美しい安定感」をもたらしているように感じられます。

強めのドラムのビートも、ヴォーカルのジャマをせずしっかりサポートしています。

 

サビフレーズでは、それまでの彼女の楽曲には見られなかった高音が多く使用されています。

歌唱力のレベルアップぶりを認識させられます。

タイトルの言葉を含む歌詞の切なさとも相まって、ロマンチックなムードを醸し出しています。

 

この曲には、メロディーライン上の珍しい特徴がひとつあります。

 

この連載でたびたび触れているように、ワンコーラスは通常「Aメロ⇒Bメロ⇒サビ」とだんだん盛り上がっていく構成で作曲されています。

そのため必然的に、Aメロとサビは「色合いが異なる」ものになります。

 

ところがこの曲は、Aメロの出だしとサビの出だしのメロディーが「まったく同じ」という非常に珍しいスタイルを採用しています。

それでも、構成に破綻をきたすことなくこれだけの仕上がりになる。

メロディー作りの「奥深さ」を感じさせられます。

 

www.youtube.com

【働き方改革】残業や休日出勤は「避けたい」人の一方、「やりたい」人もいる。その心理は?

政府の掲げる働き方改革

今さらですが、カンタンに整理すれば、将来の人口減少⇒労働力不足に対応して

  • 労働市場に参加していない女性や高齢者の就労を促す
  • 出生率を上昇させて、将来の労働力を増やす
  • 1人あたり・1時間当たりの労働生産性を上昇させる

ことが骨子になっています。

 

f:id:saewataru:20191201084006p:plain

一方、課題として

が挙げられています。

 

政府のお題目はともかくとして、働く者として一番身近な問題は、

残業や休日出勤といった「長時間労働」がなんとかならないのか?

の部分ではないか、と思います。

 

「9時5時」などという言葉は、有名無実の絵空事

そもそも、5時に終わる仕事など、どのくらいあるのでしょうか?

定時に退社するなど、ありえない。

コンビニの名前ではなく、労働時間として「セブン~イレブン」と例えられるように、早朝出勤・残業は当たり前。

土日出勤も珍しくない。

職種によっては、曜日さえも関係ない。

むしろ、それが実態なのではないでしょうか?

 

昨今は「在宅勤務」なる新しい形態も生まれました。

通勤時間が不要になって一見便利そうですが、反面「勤務時間の適切な管理」「評価のあり方」「公私のバランスの維持」など、別の問題も浮上してきそうです。

 

法律で長時間労働を規制しようとしたり、各企業レベルで時短への取り組みを推進したりしても、目に見える効果につながっているようには思えません。

従業員のカラダとココロに深刻な影響を及ぼし、過労死問題も深刻化しています。

 

そういえば、「プレミアムフライデー」などという言葉も、最近はすっかり聞かれなくなりました。

はなから、非現実的な話だったのだと思います。

そんな制度を現在実際に導入している企業は、果たして何パーセントあるのでしょう?

f:id:saewataru:20191201111509j:plain

こうした課題が解決に向かわない背景。

 

良く言えば日本人特有の「勤勉さ」、逆に言えば高度経済成長期の、言葉としては死語になっても価値観として根強く残っている「モーレツ社員」志向があるとの論調があります。

 

つまり

「睡眠時間を削ってまで長時間働くことこそが美徳で、超多忙であることこそが理想的な姿である」

という考え方。

 

残業や休日出勤を「避けたい」ものではなく、むしろ進んで「やりたい」と捉える人種の存在が確実にあります。

 

定時より長く働けば、その分「残業手当」や「休日出勤手当」が支給されます。

そのおカネ目当てに、すぐ終わりそうな仕事をあえてダラダラと進め、労働時間を引き延ばして、他のチームメンバーの足を引っ張っているとしか思えないケースもよく見かけます。

おカネ以外の「やりがい」「働きがい」、ひいては「生きがい」の分野まで波及しそうな問題です。

 

真の実態はどれなのでしょう?

  • 「時間をいとわず働くことを真に生きがい、と思い働いている」のか?
  • 「生活が厳しく、残業・休出手当に依存して働かなければならない状況」なのか?
  • 「本当は定時に帰って、ワークライフバランスを重視して、仕事以外の時間も充実させたいのに、会社や周囲の都合で結果的に長時間労働を余儀なくされている」のか?

どれか一つ、という正解はないのだと思います。

 

生きるために働く=働くのは生活するおカネを稼ぐための手段

働くために生きる=働くのは人生を実りあるものにする目的

問題の回答は永遠に出せそうにありません。

 

もちろん、白黒クリアにして論じることなど出来ません。

生きていくために、働かなければならないのは当然のこと。

 

しかし、働くことを「絶対目的」視して、

「働くこと(仕事)だけが人生」

「働くことこそが人生の美徳」

とする価値観にはどうしても馴染めない自分がいます。

 

【懐かしい歌No.70】「香水」瑛人(2019)

この連載記事のタイトルは「懐かしい歌」。

いつもは十数年、何十年前の歌を取り上げるのですが、今日は先ごろ不意に耳に残った

「懐かしくない新鮮な」歌です。

 

すでにSNSで話題沸騰中ですので、直近の歌好きの方であれば(好き嫌いは別として)ご存知であろう

瑛人「香水」。

 

まさに「彗星のように現れた」22歳のシンガーソングライターによる作品。

久々の「若手男性ソロ歌手」の登場です!

 

苗字のないアーティストネーム。

歌のタイトルも2文字熟語のみ。

どちらも超シンプルです。

 

数年前から今年の初めぐらいまでにかけては、「グループアイドルソング全盛」のご時世でした。

典型的には「AKBグループ」「坂道グループ」に代表されるものです。

ところが昨今の状況を受けて、彼女らにとって絶好のPRイベントであった「握手会」が開催できなくなりました。

「握手券」を求めるためだけにCDを購入していたファンは、CDに目を向けなくなってしまいました。

それどころか、彼女らの「新曲CD発売」さえも覚束なくなってきました。

それぞれのグループが週替わりで攫って行った「シングルCD売り上げ枚数1位」の座は、いよいよ意味をなさなくなってきました。

 

最近のヒットチャート・ランキングは、CDの売り上げ枚数でなく、むしろ配信ダウンロードの実績をメインとした「ポイント制」を採用しています。

そのせいもあってか、

何か月も前にリリースされた歌がチャート上位にロングヒットとして残り続ける「古き良き時代」のチャートアクションに似た様相を呈しています。

直近「オリコン」の週間チャートでも、1位から10位までのうちなんと5曲が半年以上前の昨年中に発売された作品。

歌が「使い捨ての消耗品」から「長く愛される存在」に戻ってきたのは、喜ばしい傾向です。

 

今日取り上げた彼の歌も、その5曲のうちの1曲。

リリースされたのは1年以上前、昨年の4月です。

リリース直後はあまり話題を呼びませんでしたが、その後「Tik Tok」をはじめとするSNSYouTubeなどで

「歌ってみた」「弾いてみた」

などの動画が次第に拡散。

人気に火がつき、先月の「オリコン」チャートでは「合算シングル」の部でついに1位。

今週も3位にランクインしています。

もうひとつの権威あるチャート「ビルボードジャパン」でも1位を獲得する大ヒットに至りました。

 

最大限に驚くのは、「CD発売なしの配信のみ」でここまでの人気になったという点です。

かつてCD、古くは「レコード」を通して音楽に親しんできた人間にとっては、時代の変遷をつくづく思い知らされます。

 

リリースに関わるこうした独特なプロセスもさることながら、楽曲自体のユニークさにも耳を奪われます。

 

グループアイドルやアニメソングシンガーユニットに特徴的に伺える

「音程を外しているオンチではないけれど、『集合体』であるがゆえの機械的で無機質なヴォーカル」が世に溢れる中、

「素朴に、しゃべるように歌う、素直で『肉声』を感じられるヴォーカル」

が新鮮で、スッキリと耳に入って来ます。

 

高校の野球部あたりにふと紛れていてもおかしくなさそうな、芸能人らしくないごく普通のルックスのニイチャンが歌っている点もユニークです。

片想い、はたまた恋愛崩壊を思わせる、何とも切ない男心を歌っていますが、あえてさりげなく突き放しているような世界にも思えます。

 

サビフレーズの語尾

別に君を求めてないけ「ど」
横に居られると思い出「す」

の「投げやり」風な歌い方も特徴的です。

さらに、ブランドの固有名詞が登場するのも珍しい!

ドルチェアンドガッパーナ

で、カッコよく発音せず「ど~るちぇ あ~んど がっぱーな」

とあえて日本語的に発音しているのも、それはそれでアリと思えてきます。

 

ラストのラストも、メロディーに乗って同じ歌詞「♬その香水のせいだよ」の繰り返しで締めくくられるのか?と思いきや、ここだけ

「僕が振られるんだ」

で終わる。

淡々と歌われているだけに、却って切なくなります。

 

歌の「基本」とも言える4分音符と8分音符を主体とした、決して難し過ぎない、弾き語りに乗せてすぐ歌えそうなメロディーライン。

サビも覚えやすく、さりげない中に緻密な音取りが感じられる楽譜です。

本人の作詞・作曲なので、言葉とメロディーのマッチングも申し分ナシです。

あえて言えば、意外に音域が広くて、低音部もきちんとクリアした上で歌おうとすると高音部が苦しくなる…ことぐらいでしょうか。

 

今どきギターだけでフルコーラスが貫かれているのも、大きなチャレンジです。

さまざまな楽器や音響効果が駆使されるのが当たり前になっている最近のオフィシャルビデオの中で、ギター以外の伴奏ナシ、ヴォーカルをサポートするコーラスもナシ。

徹底的に「歌ってみた」「弾いてみた」に寄り添った作りになっています。

 

 <歌詞全編>

夜中にいきなりさ
いつ空いてるのってLINE
君とはもう3年くらい
会ってないのにどうしたの

あの頃僕たちはさ
何でもできる気がしてた
2人で海に行っては
沢山写真撮ったね

でも見てよ今の僕を
クズになった僕を
人を傷つけてまた泣かせても
なにも感じ取れなくてさ

別に君を求めてないけど
横に居られると思い出す
君のドルチェアンドガッパーナの
その香水のせいだよ

 

今更君に会ってさ
僕はなにを言ったらいい
可愛くなったね
口先でしか言えないよ

どうしたのいきなりさ
タバコなんかくわえだして
悲しくないよ悲しくないよ
君が変わっただけだから

でも見てよ今の僕を
空っぽの僕を
人に嘘ついて軽蔑されて
涙一つも出なくてさ

別に君を求めてないけど
横に居られると思い出す
君のドルチェアンドガッパーナの
その香水のせいだよ

別に君をまた好きになることなんて
ありえないけど
君のドルチェアンドガッパーナの
香水が思い出させる

 

なにもなくても楽しかった頃に
戻りたいとか思わないけど
君の目を見ると思う

別に君を求めてないけど
横に居られると思い出す
君のドルチェアンドガッパーナの
その香水のせいだよ

別に君をまた好きになる
くらい君は素敵な人だよ
でもまた同じことの繰り返しって
僕が振られるんだ

 

www.youtube.com

「はてなブックマーク」人気・新着エントリー掲載時に寄せられるブックマークコメントが面白過ぎる件(リンク記事)

記事を書く以上、

「少しでも多くの人に読まれたい」

願望がある。

ブロガー共通の「ホンネ」だと思います。

 

そのために、どうやって注目を浴びようとするか?

「ナントカアナリティクス」やら「SEO対策」やらを駆使すれば効果的のでしょうが、私には難解でとても使いこなせません。

f:id:saewataru:20200609190534p:plain


テクニカルな工夫もさることながら、やはり基本は「記事の質」。

どれだけ読者の興味を惹くネタを探し出してくるか?

が一番のポイントだと思います。

もっとも、その「決定打」となる解がすぐに見つかれば、苦労はありません。

ブログを続ける上での「永遠の課題」ですね。

 

また、「読まれやすい記事」「書きたい記事」を両立させるのは難しいものです。

筆が進むのは、やはり後者です。

「自分の気のおもむくままに」「好きなように」でなければ、本末転倒になってしまいます。

 

どれだけわかりやすい文章にするか?

これなら、自分なりの工夫でなんとかなりそうです。

 

そんな「コツコツ努力」(?)が、ごくまれに「奇跡」を呼ぶことがあります。

いわゆる「はてブ砲」の襲来です。

今週特に「好評をいただいた記事」は、以下の2つでした。

 

saewataru.hatenablog.com

  

saewataru.hatenablog.com

 

毎日ブックマークコメントを下さる読者の方々のご厚意には、心から感謝しています。

温かい言葉の数々は、いつも丁寧に目を通しています。

私も、登録読者の方々の記事は必ずご訪問し、ブックマークのやりとりがある方の記事はもれなくブックマークしています。

レッドスター購入のようにおカネや手間がかかることではありませんし、正直なところ「どんどんブックマークしまくって」います。

それが「お互いにハッピーな状況につながる」、そう信じているからです。

 

興味深いのは、エントリー掲載後の展開です。

 

噂(?)によると、掲載の基準は「ブックマーク数(Users)」3つから、とされているようです。

実際画面を見てみると、3Usersで掲載されている記事が少なからずあります。

しかし、これまでの経験上では10ブックマークぐらいがひとつの目安になっている印象です。

もちろん、そこまで届いたら必ず掲載になるわけではありません。

 

いったん掲載に至り、それが読者諸賢の「ツボにはまる」と、毎日読んで下さる読者の皆さん以外の「一般読者」(!)からのコメントがなだれのように流入します。

それをきっかけに、ほかの記事まで波及して読んでいただけるありがたいケースもあります。

あるいはもっと進んで、読者登録していただけることも。

 

しかし、ほとんどは「その日限り」のお付き合いばかり。

さらに、そうした方々からのコメントには、共通した特徴があります。

それは、

申し合わせたかのように、揃って「タメ口」であること。

不思議なくらい共通しているので、驚いてしまいます。

 

また、これも共通して使われるキーワードが

「互助会」。

美辞麗句でブロガー同士褒め合っているように見えることを、こう呼んでいるようです。

そもそもブログは「お互いに読み合う」ことで成立している「当たり前の大前提」があるのですが、その部分をあえてこの言葉に託しているのでしょう。

 

ネットニュースに寄せられるコメントや某巨大掲示板のように、匿名であることを利用して自由な発言が繰り広げられます。

執筆者が気づかなかった点を的確に指摘して下さるコメントもありますが、見るに堪えない内容のものも数多く書き込まれます。

非表示にしているものもあるのでわかりにくいですが、コメント欄はまさに「玉石混交」の様相を呈してきます。

 

こうした現象に遭遇した当初は、心が揺らぎました。

丁寧に書いたつもりの記事が、誹謗中傷を受けたような気分にもなりました。

詳細は、3月から4月にかけて同じく記事が「バズった」時に載せた記事の中でも触れています。

この頃は、軽く傷ついたりもしていました。

saewataru.hatenablog.com

 

しかし、「学習効果」でこれに慣れてくると、どんなネガティブなコメントも

「コメントが寄せられる」こと自体、喜ばしいこと

と捉えられるようになってきました。

それだけ「注目されている」のだと割りきってしまえば良いのですから。

 

幸いなことに、ブックマークコメントには「返信機能」が付いていません。

こちらが辛抱強く黙っていれば、「炎上」する危険性もありません。

いや、むしろ「炎上」してくれた方が、アクセス数が伸びてハッピーなのかもしれません。

 

今後も、記事についてご不明な点や不足している視点のご指摘など含めて、ぜひ引き続きよろしくお願いいたします。

せっかく整備されているブログの「互助会」機能

楽しく使いこなしていきたいと思っています。

【ググっても出て来ない?】親の苗字を名乗らず活躍する「芸能界の2世」たち~俳優編・ミュージシャン編・タレント編

政界と並んで、芸能界は「世襲」の世界です。

2世タレントが山のように存在しています。

 

しかし、そのほとんどは「親の七光り」と言われるように、「〇〇の子ども」ということでしか存在感を発揮出来ていないことが多いです。

「親と同じ苗字の芸名」によって、ようやく世の中に認知してもらっている面が大きいように思います。

 

そんな中、親が同じ芸能界で活躍していながら、あえて親と同じ苗字を名乗らずに活動していて、かつ相応の知名度を維持している役者・タレントの一部を挙げてみました。

 

ちなみに、「親と違う苗字の芸名」でググってみても出て来ません。

あくまでアタマの中で思い浮かぶ範囲限定です。

  

もちろん、彼らも親のコネがまったく影響していないはずはないでしょうが、名前だけからでも「七光りからの脱却」の意気が感じられるようです。

 

<俳優編>

加山雄三

f:id:saewataru:20200605170754j:plain

父親は「元祖・二枚目俳優」(イケメンと呼ばれる時代ではなかった)上原謙、母は女優・小桜葉子です。

 

寺尾聰

f:id:saewataru:20200605170859j:plain

父親もまた、往年の名俳優・宇野重吉です。

 

佐藤浩市

f:id:saewataru:20200605170950j:plain

こちらも名俳優、戦後の映画界をリードしてきた名優・三国連太郎の息子です。

本名同じ。

「ド直球」のシンプル芸名です。

 

中井貴一

f:id:saewataru:20200605171043p:plain

元祖「二枚目俳優」と呼ばれた佐田啓二(アニメ映画でも朝ドラでもない、元祖「君の名は」の主人公)の息子です。

彼も本名同じです。

 

田村正和

f:id:saewataru:20200605171128j:plain

父親は歌舞伎役者の坂東妻三郎。

兄の田村高廣・弟の田村亮も俳優の芸能一家。

 

寺島しのぶ

f:id:saewataru:20200605171212j:plain

尾上菊五郎富司純子の娘。

男だったら歌舞伎役者だったのでしょうが、演技派女優として広く活躍しています。

 

【杏】

f:id:saewataru:20200605171302p:plain

言わずと知れた渡辺謙の長女です。

同じ俳優の道を歩んでいますが、苗字を名乗らず女優として活躍しています。

思わぬ形で「時の人」になってしまいました。

 

松たか子

f:id:saewataru:20200605171412p:plain

父は松本白鸚(前・松本幸四郎)。

歌舞伎も一種の芸能界ではありますが、違うフィールドで女優だけでなく、20年以上前から紅白歌手としても活動。

近年の「アナ雪」でまたブレイクしました。

 

工藤夕貴

f:id:saewataru:20200605171602p:plain

ああ上野駅」のヒットを持つ演歌歌手・井沢八郎を父に持ちます。

アイドル歌手としてデビュー、今も女優として良い味わいを出しています。

 

杉咲花

f:id:saewataru:20200605171711j:plain

元『レベッカ』の木暮武彦と歌手のチエ・カジウラの娘。

若手実力派女優として多彩に活躍中です。

 

新田真剣佑・真栄田郷敦】

f:id:saewataru:20200605171817j:plain

f:id:saewataru:20200605171918j:plain

千葉真一の長男・次男。

兄はもはや人気若手俳優のひとり。

弟も昨年ドラマで一躍知名度を上げました。

 

彼らは同じ俳優界(歌手の顔も持ちますが)での親子関係ですが、音楽界にも似た現象があります。

 

<ミュージシャン編>

宇多田ヒカル

f:id:saewataru:20200605172001j:plain

デビュー時には、往年の個性派歌手・藤圭子の娘であることは取り沙汰されていませんでした。

音楽性も異なりますし、親の名を借りずとも十分活躍しています。

 

【神田沙也加】

f:id:saewataru:20200605172049j:plain

当初は母・松田聖子と同じ歌手デビューをしたものの、親の存在が大きすぎて「普通の2世タレント」になりそうだったところ。

苦節数年、いまや映画やミュージカルなど独自の路線で存在感を示しています。

 

降谷建志

f:id:saewataru:20200605172127j:plain

Dragon Ashとしてデビューする際、七光りと言われるのを避けるために、父・古谷一行と同じ「ふるや」ながら、あえて違う漢字を名乗りました。

 

<タレント・その他編>

高島彩

f:id:saewataru:20200605172226j:plain

元フジテレビアナウンサー。

父親は俳優の竜崎勝ですが、ほとんど「2世色」はありません。

 

matt

f:id:saewataru:20200605172316j:plain

巨人軍・桑田真澄の息子ながら、モデル・タレントに進出して話題に。

本当に活躍しているのかどうか、今後どこへ行くのかわかりませんが、とりあえず「桑田」を名乗ってはいません。

 

IMALU

f:id:saewataru:20200605172846j:plain

明石家さんま大竹しのぶの娘。

両親の話題しか振られないタレント…のような気もしますが、今でもテレビにはコンスタントに顔を出しています。

 

【秋元梢】

f:id:saewataru:20200605172353j:plain

モデルとして活躍中。

元大横綱千代の富士の娘ですが、フィールドがまったく違うだけに「七光り」を利用して現在があるわけではないですね。

 

【すみれ】

f:id:saewataru:20200605172430j:plain

石田純一と、二番目の妻である松原千明との間に生まれ、主にモデル・時にタレントとしてテレビに出ています。

 

【紅蘭】

f:id:saewataru:20200605172604j:plain

草刈正雄の長女。タレントとして活動しています。

 

芸能界にはそこそこ詳しいつもりでいましたが、「親の苗字を使っていない」のキーワードでいざ挙げようとすると、たくさんいるようで意外に探すのが難しかったです。

男であまり「若く見せる」「若く見られる」のも考えもの。「年相応」が一番自然で美しい。ビジネスの実体験上もスムーズ

誰しもトシをとります。

その中で、いつまでも元気で過ごせるようでありたい…万人の願いだと思います。

 

加えて「いつまでも若々しく」、これもよく言われますが…

この時の「若々しさ」の捉え方が、人それぞれです。

 

最近は男性でも、「見た目=首から上=顔面の若さ」へのこだわりが強い。

そんなケースがあります。

テレビや映画に出る芸能人は、「見た目」が命の面が強い。

特に、10代20代で人気を博した人の場合、「売れた」時のイメージが後々も鮮烈に残ります。

 

逆に、本当に若かった10代20代の頃は下積みで苦労して表舞台では知られることがなく、40代50代になってブレイクする俳優が、個々に名前は挙げられませんがたくさん活躍しています。

 

あくまで一般論ですが、そうした彼らは現在の実年齢に似合ったそのままの見た目で、妙な若づくりをしていません。

それで、ごく自然にふるまっているように見えます。

そうした姿の彼らにも、きちんとニーズがあるからだと思います。

ドラマの世界は、若くてイケメンと呼ばれる面々だけではお話にならず、さまざまな年齢や個性を持つ役者たちが集まって初めて成立するのですから。

 

逆に、10代20代の頃一世を風靡してピークを迎えた人たちの「その後」には、難しいものがあるように思えます。

f:id:saewataru:20191128060849p:plain

「若さが勝負」で売れた彼らは、往々にして若くなくなったとたん「市場価値」が失われていく運命にあります。

もちろん、良いトシの重ね方をして、その後も本格的な歌手として長く活躍を続ける人、あるいは俳優に転身して渋い味を出している人もいます。

しかし全体的には「若い時のイメージがすべて」と捉えられがちなところがあります。

 

たとえば、最近のジャニーズタレントは、「上がつかえていて」デビュー年齢がどんどん上昇しています。

デビュー時にすでにアイドルとしてはピーク過ぎとも思える20代半ば以上、なんてケースも珍しくありません。

おまけに、デビュー出来てもヒットするユニットばかりとも限りません。

売れないまま「旬」を過ぎて30代・40代を迎えるジャニーズタレントも、実はたくさんいたりします。

f:id:saewataru:20200522053020p:plain

そこで、アイドルイメージを保持するための「ムリな若づくり」が始まる!

何歳になっても髪が真っ黒、あるいはオシャレ?な茶髪だったり。

およそ「年相応」とはほど遠いファッションやアクセサリーを身に付けていたり。

 

まぁ芸能人ならば、全般的に派手ないでたちになるのは自然の成り行きではあります。

その上で、服の「中身」である生身の肉体もきちんとストイックに鍛えられていればまだしも、年齢なりの「中高年体型」に陥っていたりすると、「あぁ、ムリしてるなぁ」感が強く醸し出されてしまいます。

 

あくまで個人的な印象ですが…

オトコは「首から下」、つまり肉体的に元気や若さをキープする、すなわち健康体型や体力を維持する努力は有意義であるが、「首から上」の頭髪や顔面に関しては、清潔感さえ保たれていれば、必要以上の「メンテナンス工事」は却ってアンバランスで不自然ではないか、と感じるのです。

f:id:saewataru:20191128060957j:plain

…とテレビに出る人のことばかり言って、「お前はどうなんだ?」と言われそうです。

自分自身だって「若く見られたい」意識がないと言ったらウソになります。

まったくもって自分勝手なモノです。

 

「えぇ、10歳くらい若く見える~!」なんて言われると、お世辞とわかっていても舞い上がったりします。

一方、あまりギャップがあり過ぎても困る。

特にビジネスの場では「若造」だと思われなめられてしまって困ることだってあります。

 

ある日、数名で取引先を訪問した時のこと。

初対面ですから、当然最初は「名刺交換」の儀式があります。

 

f:id:saewataru:20200522053956p:plain

その時、私は後輩や部下と一緒。

つまり、真っ先に相手に名刺を差し出す立場でした。

ところが先方の視線は、別の同伴者の方に向いている。

私より職位も年齢も下の人間を「上席者」と認識して、そちらに最初に歩み寄ろうとしたのです。

「ちょっと待ってください。私からです!」とは決して言えない!

肝心の話を始める前に、ちょっと気まずい空気が流れた瞬間でした。

 

何事も「分相応」「ほどほど」がベストなのだと思います。 

「〇〇してあげる」。一見優しくて心のこもった「へりくだり」的丁寧語。使う相手を間違えると妙な響きに

今日は、敬語のうち「丁寧語」に近い(?)話です。

 

敬語には「謙譲語・尊敬語・丁寧語」の3種類がある。

よく知られているところです。

 

ここでよく「使い間違い」を指摘されがちなのが、

自分を下にへりくだる「謙譲語」

相手を上にたてまつる「尊敬語」

の明確な区別についてです。

 

たとえば、

「言う」を謙譲表現すれば、「(私が)申す」「申し上げる」。

尊敬表現ならば、「(あなたが)おっしゃる」。

同じく、

「来る」の謙譲語は「参る」。

尊敬語は「お越しになる」あるいは「いらっしゃる」になります。

ただ、「いらっしゃる」は「行く」「来る」「居る」の3通り使えるので、ちょっと厄介です。

 

いずれにせよ、慣れていればどうと言うことのない使い分けです。

しかし、相手に対して「いらっしゃいますか?」と言うべきところを「参られますか?」などと「滑稽なミックス敬語」が使われるケースも耳にすることがあって、混乱します。

 

f:id:saewataru:20200606083338p:plain

 

これに対して、

「丁寧語」はグッとカンタンです。

「言う」なら「言います」。

「来る」なら「来ます」。

と言い換えるだけです。

 

これに似た表現として、相手に何かの行為を施す場合に、一種の丁寧(尊敬)表現として

「〇〇してあげる」

という言い方があります。

「する」の丁寧語は「します」なので、そこからさらに一歩済み込んだ丁寧表現、と言えるかもしれません。

 

「あげる」の言葉から容易に想像できる通り、「自分を下に、相手を上に置く」のが基本であるはずです。

「あなたにプレゼント買ってあげる」

この用法は、「あなた」を敬っている前提なので、何の問題もありません。

 

ところが、意識したはずのこの「上下関係」が、使用する対象によって時に不自然に響く場合があります。

 

ブログ開設間もなく、まだアクセスがまったくなかった頃、この違和感について記事を書きました。

saewataru.hatenablog.com

記事のタイトルの通り、自分が飼い・育てている動植物に対して「〇〇してあげる」が使われるケースが非常に多く見受けられます。

 

「けさ、ペットのネコにエサをあげました」

「毎朝、花に水をあげています」

f:id:saewataru:20200606085029p:plain

発言者の意図するところは、わからないでもありません。

ネコも花も、自分にとっては「かわいくて愛しい」存在。

だから、自分自身をネコや花より「下に置いて」相手を「たてまつる」のでしょう。

「愛情表現」のしるし、なのだと思うことも出来ます。

 

しかしそうは言っても、果たして動植物は人間がへりくだるような「尊敬」の対象となり得るのでしょうか?

「エサやり」「水やり」という名詞も、普通に存在しています。

エサや水は、「あげる」ものではなく、やはり「やる」ものだと思うのです。

 

「ネコにエサをあげました」と話す人は、自分の子どもに対する行為であっても、相手との会話の中で、きっと

「ウチの子どもに、おもちゃを買ってあげました」

などと、何の疑いもなく言うのでしょう。

自分の子どもを「尊敬すべき、崇め奉る存在」として扱っていることになります。

やはりヘンな気がします。

 

どう考えても自分より下の立場にあるはずの存在に「〇〇してあげる」のは不自然ですし、仮に親や会社の上役など立場が上の人間だったとしても、「人前で」を前提とした場合、そうした形で尊敬表現するのは、

「私のお母さんが、〇〇とおっしゃいました

あるいは、仕事の取引先に対して

「ウチの会社の社長さんが、〇〇していらっしゃいました

としゃべるのと同じくらい違和感があります。

 

 

「〇〇してあげる」の対象は、自分の子どもやペットにとどまりません。

その舞台のひとつめが、歯医者での治療。

f:id:saewataru:20200606090439j:plain

削ったり詰め物で対応したり、では手の施しようがなくなると、最悪の場合「抜歯」という悲劇的処置が待っています。

その際のドクターの物言いが…

「この歯は、抜いてあげた方がイイですね!」。

「〇〇してあげる」対象は、患者本人ではなく「歯」。

これも、「歯」の持ち主である患者自身に丁寧に言っているつもりなのかもしれません。

しかし、人間そのものではなく、もはや使い物にならなくなった「歯」に丁寧な言葉遣いをされても、まったく救われた気持ちになれません。

 

もうひとつの舞台が、テレビのクッキング番組。

f:id:saewataru:20200606090955j:plain

料理手順のプロセスで、

「ここで、オリーブオイルをたっぷり入れてあげます」

「鍋の中で、具材をゆっくりと炒めてあげてください」

 

「そうか、いずれ食べてしまう食材や調味料さえも、「〇〇してあげる」と尊敬の対象にしなければならないのか?!」

何とも不思議な気持ちで、料理研究家「センセイ」のありがた~いご説明を「謹んで拝聴して」いたのでありました。

 

【懐かしい歌No.69】「キャンディ」原田真二(1977)

デビュー当時、まだ18歳。

そして、このルックス。

最初、またジャニーズの新人タレントが出て来たかと思いました。

 

当時、「月刊明星」というアイドル雑誌がありました。

そこでの新人オーディションに自作曲で応募。

デモテープは、みずからピアノやギター・シンセサイザーをこなし、多重録音までひとりでやってのける、10代にして天才的な才能を思わせるもの。

それが主催者の目に留まり、デビューのきっかけになりました。

 

アイドルでなくても、ルックスはイメージアップにつながる大きな武器です。

加えてこの甘い声。

 

ちなみに、この年のレコード大賞沢田研二の「勝手にしやがれ」。

郷ひろみ野口五郎西城秀樹の「新・御三家」が活躍していたピークでもありました。

ピンクレディーが「旋風」を巻き起こしていました。

伝説のアイドル、山口百恵がヒット曲を連発していました。

アイドルソング」全盛でしたが、現在のグループアイドルとは「存在感」がまったく違いました。

そんな時代です。

 

そうした中、原田真二には彼らを吹き飛ばすほどの「違ったカラーの」人気がありました。

 

本人の意向とは裏腹に、世間は当初「ニューアイドル」の誕生ともてはやしました。

「若い歌手、イコールアイドル」の図式です。

しかしだんだん注目されていったのは、自ら手掛ける曲の、洋楽を思わせる斬新な音楽性。

「日本のニオイのまったくないメロディー」とも評されました。

 

デビュー曲の「てぃーんず ぶるーす」が発売されたのが1977年10月。

そしてこの「キャンディ」の発売が11月。

3作目となる「シャドー・ボクサー」が12月。

 

時代が下ってからは珍しくなくなった「毎月・毎週連続発売」。

しかしこの当時、「3ヶ月連続レコードリリース」など前代未聞。

デビュー間もない新人となれば、なおさらです。

しかも、その3曲が同時にオリコンベスト20入りするという、日本音楽史上初の快挙を達成しました。

 

立て続けのリリースになったのには、どれも楽曲的に素晴らしい出来で、どれをデビュー曲にしようか迷った、という「制作サイドのゼイタクな悩み」があった、と言われています。

確かに、3曲聴き比べてみると頷けます。

 

その中で最も親しみを感じたのが、この「キャンディ」

全体的には、どこかビートルズの「ミッシェル」を連想させるような、今となってはノスタルジックなサウンドです。

 

冒頭の「キャンディ I love you」の「love」に当てられた音符には、半音アップのシャープが付いています。

後半の歌詞の「さむいこころ」のメロディーの流れにも、シャープが使用されています。

実に細かい点ですが、こうした動きは当時の邦楽には見られない響きがありました。

 

本人は「シンガーソングライター」として作詞も手がけますが、このシングルの作詞は作詞家:松本隆が担当しています。

 

「キャンディ」を作るかと思えば、「木綿のハンカチーフ」も作る。

赤いスイートピー」と作るかと思えば、「ルビーの指環」も作る。

そんな変幻自在の「天才作詞家」の貢献も大きい楽曲です。

 

www.youtube.com

「お言葉ですが」。一見丁寧な表現の背景にあるのは「反論」「対抗」「否定」。その「慇懃無礼」さに苛立ったエピソード~ある銀行にて

ただでさえ使いこなすのが難しい「敬語表現」

中でも、人にモノを頼む際に敬語をどう使うかは、かなりハイレベルなテクニックが必要です。

 

代表的なケースとして、先日

「いただく」の多用(乱発)によって却ってヘンな響きになってしまう例を挙げました。

saewataru.hatenablog.com

 

頼む時の敬語も難しいですが、何かしらの話し合いの場で、相手の意見に反論する必要が出て来た場合、そこにどのように敬語を織り込むか?

話がヒートアップしていることが多いので、当意即妙な返しがなかなか出来ないものです。

 

以前、会社の会議でも議論でもない場面である種の「反対意見」を受け、思わずカチンと来てしまったシチュエーションがありました。

 

その舞台は、「銀行の窓口」でした。

 

f:id:saewataru:20200531073018j:plain


通常であれば、定年退職時に受け取る「退職金」。

私は数年前に転職したため、通常の定年年齢よりかなり早い段階で、前の勤務先から退職金を受けることになりました。

ちなみに、昨今のギスギスしたご時世ではない、ごく「平時」での話です。 

 

まだまだ「悠々自適」にはほど遠い!

働き続けていかなければ生きていけないし、環境の変化は生活面だけでなく経済面にも及ぶ懸念が大いにありました。

 

人生でそう頻繁に出会うことのない「長年働いてやっと得たまとまった額のおカネ」を前に、将来の人生設計を真剣に考えなければなりませんでした。

そこでまず向かったのが、学生時代から口座を持っている「マイ・メインバンク」でした。

 

個人としては

「一世一代の大口資金」。

ですから、前もって連絡して専門のファイナンシャルプランナーにしっかり相談時間を確保してもらえるよう、面談のアポイントをとりました。

当日通されたのは、1階に並ぶ一般の窓口ではなく、2階にある半個室状態の「応接コーナー」でした。

f:id:saewataru:20200531054639p:plain

 「資金の管理⇒運用」には、無限のパターンがあります。

私は以前のキャリアで「財務部」という部署に所属し、「仕事として会社のお金を運用していた」経験があったので、法人・個人問わずどんな運用の仕方があるか、まあまあの知識は持っているつもりでした。

 

ですから、

自分なりの「リスク選好」と「相場観」

を明確にもって、面談に臨んだのです。

  • リスク選好:「ハイリスクでハイリターン」を目指すか、「ローリターンでもローリスク」を重視するか、の考え方
  • 相場観:為替や株式・金利等の経済指標が、今後どのように推移するかに関する見通し

 

少額であれば、また若い時のおカネであれば、たとえ多少の失敗をしても挽回できるチャンスはあります。

しかし、「後戻り」や「やり直し」が利きにくいトシになってから、しかも会社のではなく自分自身のおカネとなってくれば、その取扱いに慎重になるのは当然のことです。

 

数々の運用メニューが想定される中で、私が絞り込んで決定した条件は大きく2つ。

 

多くのリターンは望まず、しかも元本割れを起こさない

上述の「リスク選好」で言えば、ハイリスク商品は選べません。

特に、株式と為替がからむ投資には懐疑的でした。

 

株式は、株価が上がればその分が「キャピタルゲイン」と呼ばれる「儲け」になります。

また株式を持てば、(その会社がつぶれない限り)定期的な配当が受け取れる。

株価は「超長期的に見れば」右肩上がりになっていくことは、仕事柄体感的に理解していました。

一方その逆もまた然り。

株価には先が見通せず、将来乱高下するリスクも非常に高い。

会社そのものが存続する保証はどこにもなく、つぶれてしまったら終わりです。

 

為替相場は、上下ともにもっと短期的な変動が激しいです。

外貨預金の金利は、国内の預金(0.01%、0.001%など、実質ゼロ。物価上昇を勘案すれば目減り)に比べれば、ケタ違いに高いです。

しかし、為替変動状況(典型的にはドル円相場)によって、そんなメリットはあっという間に消え去ります。

さらに、日々変動する相場を、神経をすり減らしながら注視しなければなりません。

また、円建て銀行預金では考えられないほど「手数料」がかかりコストが嵩むのも、見落とされがちな注意点です。

 

通帳残高の「目に見える」減少を避けたい

預金がどれだけ多くても、「取り崩し」によって残高が目に見えて減っていくのは、非常にしのびないものがあります。

たとえ1億円持っていても、わずか1万円ずつの減少が、きっとストレスにつながることでしょう。

そこで、保険のように「前もって掛金を払っておいて、一定期間『寝かせてあたためて』、何年か後になってから年金のような形で定額が『還元』される形にすれば、手元の残高が切り崩されるといった心理的な負担は少しでも緩和されるのでは?」と考えました。

そうした金融商品があることも、知っていました。

 

f:id:saewataru:20200531081153j:plain

ところが、ファイナンシャルプランナーの見解は、率直なところ私と正反対のものでした。

具体的に提案されたのは、

「国内外株式と主に外国債券を織り込んだ、投資信託型商品」

「米ドル以外の外国通貨をベースにした、高リターンの狙える外貨預金」

でした。

 

事前の電話による面談予約の際、私なりのビジョンの概要をきちんと伝えて提案を依頼したにもかかわらず、です。

窓口となる銀行自体、あるいは銀行と連携している他の金融機関の収益獲得を狙ったものであることは、火を見るよりも明らかでした。

 

先方も「営業」ですから、商品の良いところばかりを盛んに宣伝して来ます。

ただし、物事には「オモテもあればウラもある」のは常識。

こと大切な資産運用に関しては、良い面だけでなく悪い点も伝えた上で、顧客の総合的な判断を促すのが、専門家としての役目であるはず。

ところが、紹介される商品も、そのスタンスも、私のニーズとは逆行していることが感じられて来て、だんだん苛立ちが湧いてきました。

相手も、「テキトーな言葉で言いくるめるのが難しい、厄介な客だ」と思い始めていたのが見てとれました。

面談は半ば口論に近い議論になり、かなりの長時間に及びました。

 

すると、話の途中で先方から出てきたのが、

「お言葉ですが、お客様。そのお考えはいかがなものか、と…」

の言葉でした。

f:id:saewataru:20200531083509j:plain

 

「そのお考え」も「このお考え」もありません。

人それぞれ「価値観」があるのです。

また、あめ玉1個買うのとは、話が違う!

一生を考えての、大切な話なのです。

 

リッパな肩書を持った専門家が、仮にも「客」に対して「お言葉ですが」の言葉を発したことに、怒りを通り越した驚きが。

ビジネス上のタフな交渉の場でも、耳にしたことのない言葉でした。

 

「お言葉ですが」。

言葉ヅラは、一見丁寧な敬語表現のように思えます。

しかし、その後に出てくる内容は間違いなく強い「反論」「対抗」「否定」

 

「心のこもっていない、上っ面だけの敬意」「慇懃無礼」の典型を見せつけられた思いがしました。

 

もし自分が逆の立場で、客に対してどうしても反論の言葉を述べなければならなくなったとしたら?

使うべき言い回しは、

「お客様のおっしゃる内容も理解出来ます。ただし、逆にこういう見方もあるのではないでしょうか?」

を枕詞にする。

それが常道では?と。

 

相手の立場を「即座に直否定する」のではなく、まず「相手を立てた」上で対案を出す。

最低限このくらいの日本語、というよりそれ以前の「誠意ある接客マナー」は身に付けておいて欲しいと感じました。

 

「大切なお金を『殿様商売にあぐらをかいている』この銀行に託すわけにはいかない!」

もうひとつの「メインバンク」に相談を持ち掛けたことは、言うまでもありません。

天気予報はそこまで詳しくなければいけないか?「週間予報」は必要?「傘マーク」を付けない「雨予報」?「1か月予報」に意味はある?「梅雨入り宣言」もヘン?

テレビニュースのエンディング近くには、天気予報のコーナーがあるのが普通です。

NHKも含め夕刻の時間帯に何時間も生放送しているニュースの中で、やたら天気予報にかける時間が長い気がしています。

 

明日何かしらの大事な用事があって、天気や気温が気になるような時。

そんな時は、誰しも「今すぐ知りたくなる」もの。

ところが、テレビやラジオには、決まった放送予定時刻がある。

自分が知りたい時に伝えてくれるわけではない。

それまで待っているヒマなどない。

 

しかも、天気に関して知りたいことと言えば、

 

これから雨が降るのか晴れるのか?

降るとしたら午前なのか午後なのか、だいたい何時頃か?

暑いのか寒いのか?

自分に関係する地域の予報さえあれば十分で、他府県の情報など要らない。

スマホ片手に、パッと調べれば瞬時に問題解決することです。

 

一般的な感覚としてはその程度ではないか、と思うのです。

f:id:saewataru:20191124090414j:plain

ところが、どの番組にも気象予報士」なる専門家が登場し、時間をたっぷり使って、細かい天気図やらコンピューター画像やら、やたら詳しい解説を繰り広げています。

 

では、

気象のプロが情報を伝えれば、「当たる確率が上がる」のか?

そんなことは決してありません。

 

気象予報士が気象のプロならば、それぞれの「独自目線」による違った予報があっても良さそうなところですが、彼らの伝える情報ソースはみな同じ。

揃って、気象庁の発表する予報を伝えることになっているからです。

「原稿」は一緒です。

それを、誰がどう分析・解説するか?の違いだけです。

よほどの「お天気マニア」でもない限り、誰もそこまでは求めていないのでは?と思います。

 

1年前にも同様の記事を書き、これまた当たり前のように放送されている「週間予報」が疑問であることに触れました。

saewataru.hatenablog.com

現在は気象分析の技術が向上して、明日の予報が当たる確率は80%以上だと言われています。

それなら、今日時点で「あさって」の予報となると、80%×80%で当たる確率は64%?

同様に考えて1週間後を計算すると、0.8の7乗で約20%になります。

そんなに信憑性の低い情報を、堂々と放送しているのか?!

 

もちろんそんな単純な話ではないのでしょうが…

実際問題として、いざ1週間経ってみて、1週間前に出された予報がピッタリ当たっていることはまずありません

 

台風接近など今後大きな影響が出そうな時は、事前の準備として知らせる意味があるのでしょうが、そうでない限り、月曜日の時点で週間予報として当たる確率のきわめて低い土曜日・日曜日の天気を伝えられても、「参考情報」にもなりえません。

 

もっとひねくれた見方になってしまいますが…

 

けっこうお決まりのフレーズとして、画面上は「くもり」マークを出しておきながら、

「マークにはありませんが、所によりにわか雨が降る可能性があるでしょう」

という言い方がされることがよくあります。

降るエリアがごく限定的な場断だからこそ「所により」であり、降る時間が特定しにくいので「にわか雨」なのは言葉では理解できますが、降る可能性を言葉で言っているのなら、画面に小さな傘マークだけでも出しておいてくれればいいのに、と思うのです。

 

仮に傘マークが出ていて、結果降らなかったら「(傘を持ち歩くのは面倒だったけど)降らなくて良かった」となります。

逆にくもりマークだけで、それを信じて傘ナシで出かけて、局地的でも一時的でも雨にやられたら「なんだよ、もう!」という気分になりそうです。

 

というわけで、私のバッグには常に折りたたみ傘が収納されています。

 

「1か月予報」「3か月予報」と言った長期予報も、時々流れます。

「この夏は全体的に暑くなりそうです」

「降水量は、平年並みかやや多いでしょう」

こうしたレベルの情報が、どの程度必要とされているのか?

週間予報以上に、その意味合いと信憑性に疑問が残ります。

何かしら、実用的に役に立つ場面があるのでしょうか?

 

こうした中で、

一番「予報らしくない予報」だと感じるのが、「梅雨入り」に関する言い回しです。

f:id:saewataru:20200529074318p:plain

 

「予報」である以上、文字通り「将来の見通しを予測」してこそその真価が発揮されるところでしょう。

梅雨入りを話題にするに当たって、「6月の〇〇日ごろ梅雨入りするでしょう」であれば、その当たりはずれはともかく、なんとなく「予報」っぽくはなります。

 

ところが、ここ数年の気象庁の伝え方は、梅雨入りしてから、つまり「事後」になってから、

「〇〇日頃、梅雨入りしていたと見られる」

のスタンスが主流になっています。

それを言われる頃には、皆が肌感覚として「梅雨」を認識しています。

 

現代の技術をもってしても予測が難しい、ということなのかもしれませんが、昔はこんな言い方を聞いたことはありませんでした。

 

「過去形」であれば、ハイレベルとされる資格を持つ気象予報士でなくても、素人でも言えるセリフです。

「後追い」で状況を報告するのなら、それはすでに「予報」とは言えないように思います。