「山場CM」よりイラっと来るのは、大キライなタレントがいきなりCMに出てくる時
ブログを書いてみようと思ったきっかけのひとつになったのが、
テレビにおけるCM問題
でした。
開設初日には、こんな記事も書いています。
(初日だったので、ほとんどアクセスはありませんでした)
民放にとってCMは宿命。
テレビ局とて一つの「民間企業」ですから、企業経営上スポンサーに気に入られることが最大の課題であることは理解できます。
しかし、この「山場CM」に典型的に見られるように、
「なんとしてもCMを見せつけよう!」精神
が以前より露骨に出過ぎているように感じられるのです。
全放送時間に対するCM時間の比率は確か20%程度と決まっていて、調べてはいませんが昔より激増したわけではないと思うのです。
なのに、CMが以前よりうっとうしく感じられるのはなぜか?
その「挟み込み方」がイヤらしくなってきているからではないか、と。
視聴者離れが著しい昨今のテレビ業界。
だから少しでも引きつけようとあの手この手を打つ。
それが一層視聴者離れを招く。
悪循環に陥っているような気がします。
CMは、番組間にも入りますし、ひとつの番組のイイところで「突然」入るのももはや当たり前になっています。
百歩譲ってそれもひとつの「苦肉の演出」だと思うとして、個人的にそれより困っているのは、「何のCMが流れてくるか、予想がつかない」点にあります。
この記事のように、好感の持てるほのぼのとした内容のCMも時々見かけます。
好感、とまではいかなくても、ほとんどのCMは大ぐくりで「人畜無害」です。
ところが個人的に、見ていて不快感を催すCMがあります。
それは、
キライなタレントが出演しているCMです。
「キライな」クラスのタレントは大小含め数名いますが、本当に顔も見たくないクラスの「心底大っキライな」タレントが、実は1名いるのです。
ファンでなくとも、国民でまず知らない人はいないであろうレベルの大物です。
好感度アンケートでもランキング常連の人気者でもあります。
当然CMにも起用されています。
そのCMが、当たり前ですが何の予告もなく突如流れてくる。
食事中だと、食べたモノを思わず吐いてしまうほど、生理的に受け付けないのです。
「生理的に」なので、もうどうしようもありません。
これが番組であれば、出るとわかった時点で見るのを避けることが出来るのですが、突然のCMでは「防ぐ」ことが出来ません。
唯一、「だったらテレビは見ない!」しか解決法はないのです。
でも、そのためだけにテレビをやめるわけにもいかない。
なぜこれほどまでの嫌悪感を抱くようになってしまったかもうまく説明出来ないのですが、本当に困っています。
「絶対音感」の観点から考察。男声のキーが女声と同じレベルまで上昇している。「Pretender」を例に
何の条件もなく日常的シーンで男女が合唱する際、男性は女性の1オクターブ下を歌うのが通常とされています。
学校の音楽の授業でもそうです。
カラオケでよく歌われる男女のデュエットソングでも、(複雑にハモる場合は別として)その「大原則」が守られています。
はやり歌の長年の歴史の中で、(もちろん人による高低の差はあるものの)女性の標準的な「声域」は、昔も今も大きく変わってはいません。
ところが最近、男性歌手のキーだけがどんどん上昇し続けているのです。
男性が男性の新しめの歌をカラオケの「原曲キー」で歌おうとした時、キーが高くて大変!
と思われたことはないでしょうか?
ジャニーズ系に限らず、ソロ・バンド系も含め、ほとんど女声の声域に肩を並べる、あるいは凌駕するレベルまで上がっています。
もはや女性の1オクターブ下ではなく、まったく同じキー(ユニゾン)で十分イケる高さです。
では、彼らのふだんの話し声が昔より高くなっているかと言えば、決してそんなことはない。
声変わりをすれば、個人差はあるものの、みな男性特有の低い声になります。
それなのに、歌声だけが高くなっていく。
具体的に、どのくらい高くなっているのか?
考察の際、頼りとなるのが「絶対音感」です。
過去記事でも触れていますが、「絶対音感」とは…
音を聴いて、それが「ドレミ…」の何の音であるかが聞き分けられる能力のことです。
私は、物心ついた時から楽器を習っていたせいか、「絶対音感」が自然に備わっていました。
対象となる音は、「楽器」に限りません。
本来「音程」を持たないはずのふだんのしゃべり声、風の音…
耳に入ってくる音すべてが「ドレミ」で聞こえてくるのです。
そんな「絶対音感」のポイントから、話し声と歌声を聴き比べてみた場合。
たとえば、ふだんイントネーションの高低を含めて「ドレミファ…」ぐらいの高さの範囲の声でしゃべっている人が、歌い出したとたん「ドレミファ」を超えて「ソラシドレ…」と、「上のシドレ…」辺りの高さの声になる。
そんなギャップが、現実のものになっているのです。
もちろんプロ歌手であれば、きちんとヴォイストレーニングは行っているはず。
だから大丈夫なのでしょうが、「商売道具」の声帯にものすごく負担がかかっているのではないか?
今は若いからその声が出せるけれど、トシをとったら声は大丈夫なのか?
などと、他人事ながら気になってしまうことがあります。
具体名を出せば…
「元祖・高音男」としてまず思い浮かぶのが、小田和正。
もう十分ベテランなのに、高音は健在です。
徳永英明も、女性並みの高音の歌声の持ち主です。
スピッツの草野マサムネやゆずの岩沢厚治も、声域的には女性パートと同レベルを歌っています。
その独特な声質に耳を奪われて、実は高音域だったのに気づきにくいのが「もんた&ブラザーズ」のもんたよしのり。
最近のソロ歌手では、米津玄師・林部智史などが、かなり高いキーで歌っています。
いまや俳優だけでなく歌手としても大活躍し、才能を開花させている菅田将暉の歌声の音域も、意外なことに女性のものと変わりません。
そんな中注目したのが、昨年大ブレイクした
「ヒゲダン」ことofficial髭男dismのヴォーカル、藤原聡。
彼も、女声並みのハイトーンボイスです。
テレビで聴いた彼の「しゃべり声」は、「ドレミ」よりもっと下の「ファソラシ」辺り。
しかし、代表作「Pretender」でその声域を調べてみると、盛り上がるサビフレーズでは「ドレミ」をはるかに超えて、上の「ドレミファソラシドレ」まで届いています。
しかも、その高音はファルセット(裏声)ではなくしっかり地声。
二度驚かされます。
「紅白」で聴いた時、加工・編集を重ねているはずのレコーディング音源とまったく変わらないナマ歌声だったのにも感動しました。
この曲を取り上げたのは、もちろん単に歌声の高低を述べたかったからではなく、「イイ歌」だとの思いがあるからです。
昨年の楽曲なので、いつもの「懐かしい歌」ではないのですが、若干自分なりに解説を試みると…
ひと言で言うなら「ハイセンスな音楽性のカタマリ」。
楽曲の構成は、J-POPの「王道」であるAメロ~Bメロ~Cメロ(サビ)(2番の後に若干のプラスαあり)です。
リズムは、イントロからクリアな16ビートがベースになっています。
これも、それほど珍しいものではありません。
しかし、それぞれのフレーズに収まっているメロディーラインがユニークそのものなのです。
Aメロ冒頭から、考えられない音の跳び方をしており、激しい上下動を繰り返しています。
しかもその中にシャープ・フラットが駆使されていて、しかも歌詞の文字数が多いために、細かい16分音符の羅列で音が非常にとりにくい!
Bメロでは、バックのアレンジが強烈な8ビート主体にガラッと変わりながら、メロディーは相変わらず細かい動きのまま。
歌詞が従来の定型を超越した「フリースタイル」になっているので、必然的にメロディーも複雑化している面があります。
「価値観」「世界線」「論理」など、おおよそ歌詞になりそうもない言葉たちが、当たり前のように入り込んでいるのにも驚かされます。
そして、バックの一瞬の沈黙に「グッバイ」のヴォーカルが響いた後、それまでの混沌を一気に解決するかのように「君の運命のヒトは僕じゃない~」の印象的な高音サビメロが流れる。
さんざんいろいろなことを言いまわした末に、最後は「君は綺麗だ」のド直球なメッセージがあまりにも斬新、かつ心憎い。
コード進行も「そう来るかぁ~!」と思わずうなってしまうほど、実に複雑かつハイレベルです。
毎週「はやり歌」を取り上げ、拙い解説を加える連載を続けていますが、「令和のニューサウンド」は「研究ポイントあり過ぎ」の素晴らしい才能が満載状態です。
【懐かしい歌No.50】「このまま君だけを奪い去りたい」DEEN(1993)
1990年代前半に一大ブームを巻き起こした「ビーイング系」バンドのひとつ。
デビュー曲であるこの「このまま君だけを奪い去りたい」がいきなりのミリオンヒットとなりました。
続く「翼を広げて」もヒット。
翌年リリースされ、それまでとは曲調の異なるアップテンポなナンバー「瞳そらさないで」で、またもミリオンヒットを実現しています。
デビュー当時は歌番組にはほとんど出演しておらず、ヴォーカル・池森秀一の顔はだいぶ経ってから知ることとなりました。
一度聴いたら耳に残る、特徴的な歌声と歌唱法。
以前書いた記事の条件には必ずしも当てはまっていませんが、すーっと聴き入ってしまう、心の奥に響く魅力的な良い声です。
プロならば当たり前かもしれませんが、音程の正確さが完璧!
完璧というより、楽譜にきわめて忠実に「正しく」歌われているところが素晴らしいです。
バラードナンバーには、典型的に見られるアレンジ上の「鉄則に近い」技法があります。
普通、J-POPの楽曲は1番・2番プラスサビの「ツーハーフ」と呼ばれる構成が一般的です。
曲の冒頭、つまり1番の最初の部分は、スローテンポに乗せてヴォーカルをじっくり聴かせるために、バックはピアノのみ・あるいはギターのみ、といった風に楽器を抑えめにします。
そしてだんだん楽器を増やしていき、サビで最高潮の盛り上がりを呼び込んで、ハーモニーをピークに持ってくる…
2番のアタマは、メロディーは当然1番と一緒なのですが、1番のサビでいったん「盛り上がり」を迎えているので、その余韻を守るべく、バックも1番よりは若干多い楽器を配している。
つまり1番と2番では、歌っているメロディーは一緒なのですが、バックのアレンジが変わっているのです。
この曲もその「原則」に従い、1番のバックは控えめで始まり、サビに向けて巧みな盛り上がりを演出しています。
作詞は、WANDSのメインヴォーカルとして一時代を築いた上杉昇。
作曲は、TUBEやZARD、WANDSなどのヒット作を多数手がけ、あの国民的ヒット「おどるポンポコリン」の作曲者でもある織田哲郎。
J-POPの作曲家として、筒美京平・小室哲哉に次ぐセールスを誇り、自らもシンガーとして「いつまでも変わらぬ愛を」でヒットを飛ばした人気者でもあります。
長いタイトルも、ストレートな思いを表現しており、ユニークで良いです。
今聴いても色あせない、バラードの名曲のひとつだと思います。
スマホは生活を豊かにする「手段」のはずなのに、いつしか貴重な時間を費やす「目的」になってしまっている
通勤電車に乗る。
6~7人掛けのベンチ式シートに座っていて目を開けている人は、(もはや「ほぼ」ではなく)全員スマホに目を注いでいます。
立っている人でさえ、混雑の中スマホを操作するための「自分の空間」をムリヤリ確保して、画面にくぎ付け。
街中の歩道は、今さら言うまでもなく、歩きスマホする人であふれ返っています。
迷惑だなんだと、ひとりこの場でボヤいても仕方ないこと。
他人のことをあれこれ言うよりも、
自分自身はどうなのか?
振り返ってみることにしました。
確かに、手のひらサイズの物体ひとつであらゆる情報を得ることが出来て、大変便利ではある。
ただ、便利がゆえにそれに「溺れて」しまいがちになる。
スマホに限ったことではありませんが…
「情報を得る」と言えば、本来何かしらの「目的」があって、そのために必要なものを調べる「手段」のはずです。
スマホの登場とともにそれがいつの間にか、「手段」そのものが「目的」と化してしまっています。
何かほかにやりたいことや知りたいことがあって、それを成し遂げる・解決するために必要があって、そのためにスマホを使うケースはあります。
ところが、SNSでメッセージを発信する、音楽を聴く、ゲームをする…
スマホを扱うこと自体が、生活の目的になっているような気がします。
自分はどうだろう?
メール。
これは、公私とも気になってちょいちょい覗いてしまいます。
重要度の高い用事であることが多いので、メールに関しては必要です。
ブログ。
「メッセージ発信」のツールとして使えます。
でも、外出先でまでスマホでのフォローはしていません。
出かけるからには、たいていもっと大事な用件があるからです。
音楽。
外で音楽を聴くことも出来ます。
でも自分は、移動等の慌ただしい空き時間にではなく、落ち着いた気分で環境を整えて聴くことに集中したいので、そのためにスマホ・イヤホンは使いません。
ゲーム。
まったくやらないので、わかりません。
1日のうち、仕事や食事・睡眠以外の貴重な「空き時間」のうちかなりの部分を、スマホとの付き合いに費やす。
それ自体が「目的」であり、その目的を通じて「達成感・充足感」を得られるなら、それはきっと正しくて素晴らしい付き合い方なのでしょう。
しかし、それが毎日。
1年、数年、ずっと続いた時。
極端な話、おそらく生きている限り。
「スマホと一緒に貴重な時間を使えて幸せな人生だった」と思えるなら、それがベストです。
たかがスマホで人生云々とは、仰々しい話かもしれませんが。
いまや、スマホなしでは暮らせない時代。
私も、日常生活からスマホを手放すことはできません。
でも、「スマホに触れることが目的になっている」生活が幸せとは、やはり思えないのです。
1日を振り返った時、限りある時間を「ついついスマホ」の蓄積に奪われてしまうのは、やはりもったいなく思えて寂しいです。
最近よく見かけるのは、カップルや友人同士で会って集まっていても、互いが無言でスマホを覗いている風景。
せっかく顔を合わせる時間を作ったのなら、「話す」ことをもっと楽しんだらいいのに…
当人たちにとっては普通のことなのでしょうが、なんだか不思議な光景です。
ヒトのことは構わないとして、自分の周囲でも似たようなことがあります。
みんなでしゃべっている最中も、スマホを握りしめたまま目を離さない人(少なくとも手からは離さない)。
しゃべっているテーブルの隅に、常にスマホを置いたままにしている人。
けっこういます。
人との会話より、スマホに意識が向いていることは明らかです。
何のために、貴重な時間を割いて集まっているのだろう?
目の前にいる人の存在を、空気のようにしか思っていないのだろうか?
そんなスタンスを気にする私の方が、おかしいのでしょうか…
【地味に放映中】土曜朝の定番。阿川佐和子の「聞く力」が冴える。「徹子の部屋」よりフランクなトーク番組~「サワコの朝」
毎週土曜日7時半からの30分、TBS系で放映されているトーク番組です。
MCは阿川佐和子。
メディア登場のスタートは、ニュース番組のアシスタントでした。
番組内では、レポーター役もこなしていました。
彼女に関して、現在「一番トップに来る肩書」は、一応「エッセイスト」ということになっています。
彼女のエッセイを何冊か読んでいますが、身近な生活感あふれる内容で面白いです。
最近は女優業にも進出しています。
TBS系ドラマ「陸王」で、足袋工場の現場リーダー役を好演していたのは驚きでした。
作家・阿川弘之を父に持つ「2世」ではありますが、いまや「七光り」などまったく不要。
まさに、「マルチタレント」的な活躍をしています。
そんな彼女が、各界で活躍する著名人と1対1(まれに複数の時も)のトークを番組内で展開しています。
放送回数10000回をゆうに超え、「同一司会者によるテレビトーク番組最多放送」のギネス世界記録にも認定されている超長寿番組「徹子の部屋」と、基本的には同じスタイルです。
「サワコの朝」も、2011年の放送開始以来すでに9年。
テレビとしては、十分長寿番組の仲間入りをしています。
タイトルで「フランクな」と記したのは、良い悪いではなく
MCのキャラクターの違いによるものです。
1950年代、テレビの創成期から活躍し、もはや「生ける伝説」的存在である黒柳徹子。
あの年齢で「帯番組」としてトークを続けていられるのは、超人的な素晴らしさだと思います。
一方、番組的にはゲストが現在画面ではあまり活躍の見られない比較的年長者が多かったり、たまに若手が出演する時は、ゲスト側にふだんとは違う緊張感が伝わってきたりします。
MCの偉大さゆえの、もはや避けられない「宿命」みたいなものです。
そもそも放送時間が平日の白昼。
ですから、視聴者層もその時間帯に在宅している人たちを対象としているわけで、そもそも比較するのも無意味な話です。
ところで、本題のMC。
阿川佐和子も年齢的には中高年層に入りますが、まだまだ「現役感」は強い。
番組以上に長く継続している「週刊文春」での対談コーナーや、ベストセラー著書「聞く力」等でも知られるように、インタビュアーとしてゲストがリラックスできる環境をテレビの場でもうまく作っています。
話しぶりを聞いていると、
「押しが強い」わけではないのですが、「合いの手」の入れ方が巧み。
そのテクニックは、テレビ朝日系のディスカッション番組「たけしのTVタックル」のサブMCアシスタントとして、あれだけの数の論客を毎回デスクに揃えながら、きちんと要所で発言を取りまとめて進行する話術にも垣間見ることが出来ます。
番組中、実質20分ほどのトークで、ゲストの意外なキャラクターがすっかりあらわになる。
歌や演技などの「本業」でしか知らなかったゲストの人間性が垣間見えて、突如その人のファンになることも少なくありません。
視聴する側も、リラックスして見ていられるのが良いのかもしれません。
土曜朝の「地味な時間帯」に、しっかり根を下ろして放映中です。
また、今では非常に珍しいバナソニック「1社単独提供」のせいか、CMがイラつくタイミングで入ることがなく、あまりうっとうしく感じられないのも、見ていて心地良いです。
あさって7日は、「講談界の風雲児」神田松之丞改め神田伯山が出演。
楽しみです。
(スマホ HP URLタップ)
【懐かしい歌No.49】「時の流れに~鳥になれ~」五輪真弓(1986)
五輪真弓と言えば…
晩秋の物悲しい雰囲気の中で別れの切なさを歌い上げたバラードナンバー
「恋人よ」
の歌い手…
これが一般的な認識かと思います。
しかしあれから40年。
もしかしたらそれさえも世間の記憶の彼方かもしれません。
「ニューミュージック」という言葉が生まれた1970年代から、時代とともに歌手活動を開始。
デビュー当初からいくつかの「話題作」は提供していました。
また、奥行きの深い歌唱力にも定評がありましたが、デビュー後数年間は「爆発的」と言えるヒットには巡り会えていませんでした。
それが、1980年の「恋人よ」でヒットの頂点へ。
この楽曲で、彼女の名は全国区になりました。
彼女に限りませんが、「大ヒット」を継続するのは非常に難しいことです。
「歌手専業」、すなわち別に作詞・作曲者がいる場合には、セールスが不振だった場合に制作スタッフをチェンジして、違うイメージの曲で勝負する方法をとれる可能性もあります。
しかし、彼女のようなシンガーソングライターの場合、歌を作るのも歌うのも「本人」になりますから、どうしても「作風」が似通って来てしまう宿命にあります。
事実、「恋人よ」の後に
「運命(さだめ)」「リバイバル」
といったシングルをリリースしていますが、いずれも「恋人よ」に通じるスローテンポの短調で曲調が似ており、大ヒット曲を上回る実績を挙げるには至りませんでした。
この「時の流れに~鳥になれ~」は、「恋人よ」から少し時代の下った6年後、1986年に発売された楽曲です。
それまで「暗い歌を深刻な表情で歌う」イメージが強い彼女でしたが、この曲ではタイトル通り、また歌詞の「翼を広げて~」にあるように、
「広い大空を鳥が羽ばたく」
姿をイメージさせるような、明るい曲調でスケールの大きさを感じさせる作品に仕上がっています。
彼女の作る曲のひとつの特徴は「メロディーは複雑だが、コード進行はシンプル」という点です。
五線譜に起こすと、音符が細かく刻まれていて難しいのですが、ハーモニーはそれに比べると「正統派」で比較的簡単なモノが付けられています。
この曲の場合は、サビフレーズが「基本3和音」と呼ばれるコードで統一されています。
ピアノやギターといった「弾き語り」に向いているスタイルとも言えそうです。
映像は、芳村真理が長らくMCを務めた往年の歌番組「夜のヒットスタジオ」での風景です。
CDレコーディングと違って、スタジオの生放送では当然「歌い直し」は利きません。
そうした環境下でも、これだけ堂々と歌い上げられる…
MCの古舘伊知郎に「声帯パワー」と言わしめるにふさわしい貫禄だと思います。
今の歌手にはなかなか見られない「美しいビブラート」も、大きな特徴です。
(歌は1分0秒あたりから)
薄く微笑を浮かべながら歌う表情も、きわめてレアです。
(スマホ:URLタップ)
【我が日常を暴露!】生まれて初めて撮った自炊朝食。時間を十分に確保し、ブログを「読む」ことから始まる平日の朝
記事の見栄えを良くするために、
「画像やイラストをうまく取り込むのは効果的」
と言われています。
それらが入っていることで、文字だけが並んでいる記事より読みやすくなる。
見た目も華やか!
さらに、画像ひとつで文字の何倍もの情報量を伝えられる大きなメリットもある。
この男の子のイラスト、よく登場しますよね?!
確かに、総合的に見れば「ベター」なのだと理解はしています。
その一方、何十枚もの写真で「埋め尽くされた」記事もよく目にします。
ひたすら、写真が連続している…
PCで見る場合はあまり気にならないのですが、
スマホで見る場合、「どこまでスクロールしても、記事の終わりが見えない」。
そんな事態によく陥ります。
どの程度が「適量」なのか、つい考えてしまいます。
そんな私でも、オマケの画像や記事にちなんだイメージイラストを途中に1枚2枚入れることは必要と感じています。
特に、私も定期的に書いている旅行記。
本来は、風景画像をもっとたくさん入れた方が「旅日記」らしくなって良いのでしょう。
しかし、せっかくの旅行。
実際に歩いている最中は…
「写真を撮る行為に夢中になっている時間がもったいなく思えてしまう」。
もともと、風景や雰囲気を自分の目に・心の中に焼き付けておくことに時間を費やしたい派なのです。
そもそもブログを意識した旅自体、して来なかったのが現実です。
当然、記事に載せるほど十分な「撮れ高」などあろうはずがありません。
さて、これが日常生活ともなると、ほとんど写真撮影とは無関係。
「画像を添えるのはイイ」と言うけれど、肝心の「素材」がない!
あえて上げるとしたらこんなモノしかないなぁ、と。
生まれて初めて、「冴えない料理」の写真を撮ってみました。
外食は生活習慣上していません。
誰かと会うなどの用件がない限り、3食すべて自分で作ります。
ですから、多くの方がブログ運営している食べ物屋さんのおいしい料理の写真は、残念ながら撮る機会がない。
じゃぁ、というわけで、毎朝自分で作る代わり映えのしない朝食です。
定期読者の方々はご承知の通り、「料理特化ブログ」ではないので、おそらくこれが最初で最後の料理画像です。
「日常まる出し」で、そもそも全然「映え」など意識していません…
朝食はパンと牛乳でササっと済ませてしまえれば、朝の忙しい時間帯には時短になって良いのでしょう。
ところが私は、最低限
ごはんと汁モノ・ハムエッグ・野菜漬物数種類・牛乳・お茶(コーヒーではなく日本茶!今日はほうじ茶)
が揃っていないとダメなのです。
けさは、生野菜が足りていません…
昨晩サラダで食べ切ってしまいました。
白米も、朝から定食屋並みのけっこうな量です。
好きなだけ食べられるのが、自炊の一番のメリットです。
ちなみに、左ききなので箸の向きが逆です…
朝の出勤前は、これに昼の弁当作りが加わります。
毎朝のルーティンなのでだいぶ要領よくやれている気はするのですが、昼は朝とは違うおかずにしたいですし、2食分支度をするとなると、どうしても30分近くはかかってしまいます。
平日は、朝目覚めてから家を出るまでに、最低2時間半は確保するようにしています。
朝が早いので、恥ずかしながら夜寝るのは小学生並みに早いです。
ブログがなければ、もっと早く寝ているかも。
最近は、朝起きたら、まずはブログ。
定期購読者や、自分の記事にスターやブックマークを付けて下さった方々のブログを読むのに計30分程度かけています。
まずは、寝ている間に掲載された記事を必ず「読み」に行きます。
決してスルーしてしまうことのないよう、細心の注意を払っています。
忘れずに、訪問の「足あと」を付けます。
お互いに訪問し合うことの積み重ねによって信頼関係が築けるものであり、自分の拙いブログでもなんとか存在し続けることが出来ると信じているからです。
ホンネを言えば、「書いたからには読んで欲しい」。
でも、私のような立場の弱いブロガーは、こちらから訪問して足跡を残さないと、なかなか訪問してはもらえないものです。
中には、ご自身で執筆されない日でも必ずご訪問下さる読者の方もいらっしゃいます。
本当にありがたいことで、その方々のお名前は決して忘れません。
先に「足あと」を下さった方の記事も、もちろん(後からになって申し訳ないのですが)欠かさず訪問しに行きます。
いずれにしても、
ブログを継続していくために、「読む」のは「書く」より大事な仕事
と考えています。
それでも、訪問数に対してアクセスされる数はざっと半分くらい。
現実の厳しさを日々実感しています。
記事のネタ探しがストレスになることはまったくないのですが、この状況が続くと心が折れそうになります。
(すみません。ちょっとグチってしまいました…)
記事を「書く」方は、休日を使って事前にまとめて予約投稿しているので、ストックは十分。
基本的に朝はタイピング作業はしません。
寝ている間にもしコメントが入っていた場合に、返信を入力するくらいです。
そのあとの朝の「ルーティン」は、と言えば…
着替え・歯磨き・洗面・シャワー等で20分。
朝食・昼食(弁当)の支度に30分。
食事そのものに15分から20分(食べるのが異様に遅い…)。
後片付けや炊飯器のタイマーセットに10分。
その他予備時間。
自分で言うのもヘンですが、かなり余裕のある、かつ計画的な朝の時間づかいです。
コールセンターの待ち時間に苛立ち。でもその「最後の頼み」さえない場合の困惑・苦悩と言ったら
コンピュータシステム関係の技術に詳しい人を、心から羨ましく思います。
恥ずかしいことに、スマホのアプリでさえ、デフォルトから追加したのは「本当に生活上不可欠な」数個ぐらいしかなくて、全然使いこなせていません。
それでいて、(昨日触れたように)自宅のデスクにはパソコンが2台あります。
特に昨年導入した作曲用パソコンの方には、まあまあ「プロ仕様」のソフトをインストールしています。
これがないと、イマドキの音づくりがまったく成り立たない。
でも奥が深すぎて、これもまた使いこなせているとは言えない状態です。
「アタマの中で音楽を作り出す」のと「思い浮かんだ音楽を(コンピューターを使って)形にする」のは、まったく次元の異なる話なのです。
ニッポンの総人口からすれば、本業にせよ趣味にせよ、作曲ソフトなどかなりマニアックな世界。
従って、購入後のフォロー体制も、ユーザーが少ない分限定的です。
なにせ身の程知らずなレベルのソフトを扱っているので、操作上の問題も含め、何かシステム的なトラブルがちょっとでも発生すると、とたんにテンパってしまうのです。
コールセンターのある会社の場合は、まずそこに問い合わせます。
でも、作業するのはたいてい休日や夜間。
問題が発生しても、先方は土日が休み。
受付時間内に連絡出来ない場合も多々あります。
仮に、ようやくその時間が確保出来たとする。
電話をかける。
つながった!
「やった!」と思った瞬間、ほぼ例外なく
「ただいま、電話が大変込み合っております」
「順番におつなぎしますので、このまましばらくお待ち下さい」
の自動音声になる。
心が崩れ落ちる瞬間です。
フリーコールとは言え、何分・何十分待たされるのやら、いつオペレーターにつながるのやら、の苛立ちはハンパないものです!
その後、ようやくオペレーターの「肉声」が登場。
ところが、そこからの手続がまたややこしい!
「本人確認のため」と称して、こちらの連絡先やユーザーIDなど、マニュアル通りのさまざまな質問を受け、なかなか本題に入ることが出来ない!
必要以上にバカっ丁寧な言葉遣いさえ、腹立たしくなります。
インストールしたソフトの「シリアル番号」とやらの意味不明なアルファベットを読み上げさせられるだけでも、大きなストレスです。
それでも、電話で直接話が出来るだけまだマシです。
時間はかかっても、なんとか解決まで導いてくれます。
親切な会社の場合、リモートモードにして画面を共有しながら教えてくれたりする。
とても助かります。
しかし、そこまでの形でコールセンターが整備されているケースはむしろ稀です。
それがない場合、「最後の頼み」として、業者のサイトにアクセスして「お問い合わせフォーム」に状況を入力してのメール送信しか方法がありません。
「教えて!goo」や「Yahoo知恵袋」に、回答が載っているはずもありません。
「お問い合わせを受け付けました」の自動送信メールはすぐ届くのですが、肝心の回答までに何日待たされるのか、それ以上に的を射た返答が来るのか、果てしない「悶々とした」時間を過ごすことになります。
パソコンの初期設定を手伝ってくれる業者はゴマンとありますが、このようなマニアックなソフトの中身の相談に対応してくれるところはなかなかありません。
それでもダメな時、「本当に最後に」頼りにできるのは、インストール時にセッティングされている「ユーザーマニュアル」ぐらいしか残されていません。
昔は、ソフトがCDスタイルになっていて、附属物として分厚いマニュアルがくっついて来ていました。
最近では、マニュアルもWeb上で確認するものがほとんどです。
しかし、あの超膨大な情報からどこを切り取れば、直近の問題点の解決にたどり着くことが出来るのか?
トラブルに遭遇するたび、大げさでなく「自分の音楽人生、これまでか…」とさえ思ってしまいます。
数日で解決すればまだマシな方。
その間仕事は上の空。
食事もおいしくないし、テレビも面白くない…
「途方に暮れる」とは、まさにこういう時のためにある言葉なのだ、と感じます。
自室の「ミニスタジオ」~作曲ソフトと譜面作成ソフト
たびたび記事でご紹介しているように、歌作りは仕事の空き時間にやっているのですが、その「仕事場」はもっぱら自宅パソコン。
自前の立派なレコーディングスタジオを持てれば申し分ないのですが、スタジオを使うのは特別な時だけ。
ふだんは、生活感丸出しの寝室を兼ねた普通の部屋で作業を行っています。
自宅のデスクには、パソコンが2台置いてあります。
メールやネットサーフィンなどふだん使いのWindowsノートパソコンと、作曲専用として使っているiMac Pro。
作曲ソフトをインストールしてあるパソコン。
画面は、こんな感じです。
中央上部の「緑色の帯が見える部分」が入力エリア、いわゆる「作業スペース」です。
この部分に、ピアノやギター・ベース・ドラムなど使う楽器を指定して、音符をデータとして入力していきます。
中央下部の「ボリュームバー」がたくさん見えているところが「ミキシング」エリア。
ここで、さまざまな楽器の音色のバランスを調整して、カラオケに仕上げていきます。
出来上がったところで、ヘッドフォンを耳にしながらヴォーカル入れのレコーディング。
マイクを通して自分の肉声がデータ化され、同じ画面の中に入力されていきます。
何度もヴォーカルを重ねて「ひとりコーラス」を行うことも可能です。
ヴォーカルを入れたあとでも、最終的に声とカラオケのバランスを同様に調整することが出来ます。
以前はノートパソコンを使っていたのですが、ひとつの画面にこれだけの情報量が重なると小さい画面では見にくいので、大型サイズに変更しました。
持ち歩くわけでもないので、画面は大きい方が断然見やすい!
ずいぶん使い勝手が良くなりました。
通常、メロディーは楽器を使ったりせずすべてアタマの中だけで作るので、作曲にまつわるこれらの作業は、いちいち楽譜を書かずに行い、イメージをそのまま入力していスタイルです。
しかし、コンテスト応募の時など、楽譜の提出も要求される場面も出てきます。
もちろん手書きで準備しても良いのですが、最近は便利な
「譜面作成ソフト」もあります。
この方が見た目も良く、ずっと便利です。
作業イメージはWordと似ていますが、扱うのが「文字」ではなく「音符」なので、操作がやや複雑。
微妙なレイアウトを整えるのに、やや時間がかかります。
仕上がったものをPDFに変換すれば、普通にOfficeのファイルと同じようにメール添付ができます。
今のシステムを最初に導入してから10年ほど経ちますが、バージョンアップを繰り返して、それ以前とは比較にならないほど音質も操作性も向上しました。
ところが一方で、コンピュータの技術的にはまったく素人のため、作業中に何かトラブルが起こった時は、本当に一大事になります。
その詳細は、明日お話しすることにします。
【懐かしい歌No.48】「序曲・愛」野口五郎(1981)
60年代、歌謡界に「御三家」という呼称が登場しました。
当時人気歌手だった橋幸夫・西郷輝彦・舟木一夫の3人を指した言葉です。
それぞれに代表作と言える大ヒット曲を持っていました。
そして、70年代に突入すると、「アイドル」の名称とともに再び男性人気歌手が揃いました。
彼らは「新・御三家」と呼ばれ、親しまれました。
郷ひろみは、1972年「男の子女の子」で「元祖・ジャニーズ」のイメージを前面に鮮烈デビュー。
「よろしく哀愁」「哀愁のカサブランカ」「Gold Finger'99」など、節目節目で話題作を輩出。
今も紅白で「エキゾティック・ジャパン」を歌い続け、「ザ・芸能人」として現役感の強い活動をしています。
西城秀樹が惜しまれつつ63歳の若さで亡くなったのは、ご存知の通りです。
彼も同じ1972年のデビュー。
彼もまた「激しい恋」「傷だらけのローラ」「ギャランドゥ」など、誰もが知るヒット曲を連発。
1979年に発売された「ヤングマン(YMCA)」は、その特徴的な振り付けと共に、今もCMソングに起用される国民的ヒット曲でした。
野口五郎のデビューは、彼らより1年早い1971年。
同じ「トリオ」で括られていますが、実は西城のデビューのきっかけは野口にあり、西城が野口を「先輩」として強く慕っていた、というエピソードは、当時から知られていました。
郷・西城がそれぞれの個性を生かした「華のある」「派手な」キャラクターだったのに対して、野口五郎は同じ「アイドル」の範疇に組み入れられながらも、3人の中では地味な存在でした。
「新・御三家」の一員として、「オレンジの雨」「君が美しすぎて」「甘い生活」などのヒットを連発してはいましたが、第一線での活躍から30年40年経った現在、一般の人の記憶に残っているヒット曲がもしあるとすれば「私鉄沿線」ぐらいかな、と思います。
しかし、「歌そのものを本格的に聴かせる」という意味では、最も優れた力を持っていた歌い手であったと個人的には見ています。
野口のデビュー曲は「博多みれん」というタイトルからも察せられるように、「演歌」でした。
これが不振だったため、2作目にポップスに転向。
名作曲家・筒美京平の手による「青いリンゴ」がヒットし、アイドル歌手の仲間入りをした、という経歴があります。
1975年の「私鉄沿線」以降、大ヒットと呼べる作品には巡り会えず、80年代に入ると「新・御三家」の中で唯一「紅白」からも落選したことも。
「19:00の街」で再び紅白にカムバックするのは、1983年のことでした。
この「序曲・愛」は、彼のプチ低迷期に発売されていたシングル。
当時20代前半にして、本格的なラブバラードを歌いこなしています。
曰く、本人の「一番のお気に入り楽曲」だとか。
頷けます。
(スマホ:URLタップ)
プロ野球の球団名~なぜ巨人の呼び名だけが例外なのか?
順当にいけば、今年ももうすぐプロ野球開幕の季節です。
私は特にプロ野球の熱狂的ファンではありませんし、シーズン中の順位などはほとんど把握していません。
しかし、幼い頃は地上波で巨人戦をほぼ毎試合中継していたので、特に意識していなくても、画面には球場が映っていることがよくありました。
スポーツニュースも、プロ野球関係の話題が今よりずっと多かったような気がします。
今でこそ、サッカーJリーグやバスケットボールなどが注目されるようになりましたが、昔はプロスポーツ中継の種類が多岐にわたっていなかったこともあって、スポーツファンでなくても、プロ野球の位置づけは今よりずっと高いものでした。
今日の「不思議」は…
「12球団のうち、なぜ読売ジャイアンツだけ巨人と呼ぶのか?」
です。
たとえば、「阪神タイガース対中日ドラゴンズ」は「阪神・中日戦」と呼びます。
では、なぜ「読売ジャイアンツ対広島カープ」は「読売・広島戦」ではなく「巨人・広島戦」になるのか?
球団には「球団名」と「チーム名」があり、それに基づく呼称の違いが影響しているらしいです。
巨人の球団名は「株式会社読売巨人軍」、チーム名は「読売ジャイアンツ」。
中日の球団名は「株式会社中日ドラゴンズ」、チーム名が「中日ドラゴンズ」なので、略称はどちらも「中日」。
順位表や球場の表示では、球団名が用いられているため、「株式会社読売巨人軍」の略称として巨人。
この場合の中日は、同じく球団名の略称として中日が使われていることになります。
これでも、ちょっとややこしくてよくわかりません。
一方、NPB(日本野球機構)のHPで確認して見ると…
こちらは、チーム名の略称で統一されています。
また、「あぁ、そういえば…」と思い起こされるシーンが「ドラフト会議」の時。
あの場だけは、巨人は確かに「読売」と呼ばれていますね。
他にも広島東洋・千葉ロッテ・北海道日本ハム・福岡ソフトバンク・東北楽天の「広島」「ロッテ」「日本ハム」「楽天」は、チーム名として呼ばれているそうです。
広島だけ地名で、ロッテ・日本ハム・楽天は地名じゃない、というのも不思議ですが。
球団名とチーム名の違いがあることはまぁ理解したとして…
それぞれのチームに付いているカタカナの「愛称」。
たとえばタイガース・ドラゴンズなど。
この部分をあえて「漢字化」して呼んでいるのは、やはり「ジャイアンツ→巨人」ただ1球団だけ。
古くからの慣習でそうなっているのでしょうが、やはり「例外」です。
録音された自分の声に違和感を覚えることはありませんか?原因は「気導音」と「骨導音」の違い
何らかの機会があって、人と話している自分の声を録音し、スピーカーを通して聞いた時、
「アレ?自分の声ってこんな声だったのか!?」
と驚いた経験はありませんか?
にわかには信じられないが、しゃべり方を聞く限り、まぎれもなく自分の声には違いない。
しかし、自分がふだん聞いている声とは明らかにまったく違う!
それを初めて耳にした時の違和感はハンパない!
たいてい、「もっとイイはずなのに…」と思ってしまう。
ですから、違和感というより「衝撃」に近いモノがあるかもしれません。
真の自分の声は、自分自身で正しく?聞くことが出来ていないことになります。
その理由は?
口から出た音は、空中を通じて両耳に到達します。
この空気が伝わった音は「気導音」といいます。
一方自分の中では、自分が声を出した時の声帯の振動が頭蓋骨を通じて直接的に伝えられる「骨導音」も、同時に耳に伝わります。
自分のカラダの中が、一種の「スピーカー」状態になっているのですね。
(「骨伝導」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います)
自分自身は「気導音」と「骨導音」の両方がミックスされた声を聴いているわけです。
ところが、相手の人にはこの「骨導音」の部分が届かず、「気導音」だけを聞いていることになります。
機械で録音された音も、これと同じように「気導音」のみです。
この結果、自分が認識している自分の声と、他人が聞く音や録音された音とはかなり異なる感触になってしまうのです。
私もこの違和感が嫌悪感に近いほどひどくて、悩みました。
「え?!これが自分の声?こんなはずではない!」と。
でも、悩んでもどうにもならないので、慣れるしかないと割り切りました。
これが話し声ではなく「歌声」であれば、不思議なことにあまり気にならないのです。
スタジオで、あるいは自宅のパソコン前でのレコーディング現場では、自分が発した歌声が、ヘッドフォンを通じて耳に入ってきます。
マイクを使うと、上記の「気導音」だけが聞こえてくる。
つまり、相手が聴いている声=自分の本来の声の状態に少しだけ近いものになるようです。
日常的にそれを行っていると、少なくとも歌声に関しては、自分の声を自然に、客観的に受けとめられるようになってきます。
出来上がったCDや音源データを聴いていても、それほどの違和感を覚えることはありません。
「案外悪くないじゃん!」と思うようにしています。
つい先日も自室でレコーディング作業を行っていて、ふと気づいた話でした。
【懐かしい歌No.47】「LOVE IS ALL」椎名恵(1986)
80年代に入ると、時代は女性アイドル真っ盛りでした。
そして80年代半ばになると、「おニャン子クラブ」の登場とともに、まさに百花繚乱の状況を呈するようになります。
もちろん彼女らの中にも、「きちんと歌を歌える」歌い手はいました。
しかし、ただ「若い」ということだけで「アイドル」とひとくくりにされる…そんな雰囲気がありました。
そうした潮流とはまったく別の次元で、歌番組に登場したひとりの女性実力派歌手がいました。
その名は、椎名恵。
今となっては懐かしい「ポプコン」こと「ヤマハポピュラーコンテスト」の出身者です。
1986年のデビュー曲は「今夜はAngel」。
原曲は洋楽で、ダイアン・レインの映画『ストリート・オブ・ファイヤー / Streets of Fire』より「今夜は青春 -Tonight Is What It Means To Be Young-」。
フジテレビ系ドラマ「ヤヌスの鏡」の主題歌に起用され、話題となりました。
アップテンポで激しい感情の曲を華麗に歌いこなすその歌声に、思わず耳を惹かれました。
テレビに初登場した際は、当初後ろ向きでスタンバイし、しばらくの間顔を見せない演出が施されていたために、一層ミステリアスさが漂っていました。
そして、彼女の名を決定的に印象付けたのが、これまた洋楽由来。
シャーリーンの「愛はかげろうのように -I've Never Been to Me-」をカバーした「LOVE IS ALL」です。
これも、ドラマ「おんな風林火山」のテーマソングに起用されました。
デビュー曲からうって変わって、ミディアムテンポに乗せてゆったりと歌い上げるスタイルは、J-POP界に良い意味で異彩を放つ代表作となりました。
「はやり歌」のほとんどは、「主和音」と呼ばれる「ドミソ」のいずれかの音から始まるのが普通です。
曲の最初とラストの締めは、据わりの良い主和音(Ⅰ度の和音)にするのが「王道」です。
カンタンに言ってしまえば、それが人間の耳に心地よく、落ち着くからです。
しかしこの曲は、歌い出しのメロディーもイントロもその鉄則を破り、「ソシレ」と呼ばれる異なる和音(Ⅴ度の和音)からスタートしています。
当初は、曲のキーが何なのか把握できません。
Aメロが進んで行くうちに徐々にそれが解決し、サビの
「女なら 何よりも 愛を選ぶわ」
でようやくきちんと「主和音」が出てきて、「安心する」ことが出来る…
そんな構成になっています。
楽曲の作りももちろんですが、やはり彼女の天性の美声を抜きにしてこの曲は語れません。
低音から高音まで、ムラなく声が響いている。
低音部は「地声」で、そして高音部になると「裏声(ファルセット)」に転じるのが、よくある歌唱法です。
間違いではないのですが、「素人に近い歌手」の場合、声が裏返ったとたん極端に声量が落ちて細くなってしまう。
しかし彼女の歌声からは、その境目が感じられません。
ヴォーカル面の魅力は、そんなところにもしっかりと現われています。
都区内の住宅地の真ん中に「渓谷」があるなんて!~世田谷区・等々力渓谷
東京都内。
しかも23区内と言えば…
「各駅に繁華街があって、周囲は住宅だらけで、やたら人が多くて…」
といったイメージばかりが目立ちます。
以前の記事でも、さらに都心部では「駅」の両側が開けて繁華街が形成されているのがユニークな特徴であることに触れました。
それだけ「スケールの大きな街」であることは、間違いありません。
一方で、都心部にも大きな公園が多数あります。
意外に「緑の多い街」といった顔も持っています。
皇居や明治神宮・代々木公園・新宿御苑・上野公園などは、その代表格。
実際に地図で確認してみると、「山手線の内側なのに、これだけ緑のエリアがあるとは!」と思うほど、その面積が大きいことがわかります。
そうした有名な公園・緑地になると、大規模でも「あって当然」的なところがあります。
ところが、もう少し目を広げて「都区内全体」で見てみると…
世田谷区の真ん中に、意外な形で存在している緑のエリアがあるのです。
世田谷区と言えば、23区の中で最も人口の多い区。
その数、およそ90万人。
1つの区だけで、地方の大都市を上回る数の人が住んでいるのです。
当然のことながら、人口密度も非常に高い。
数字を言われてもピンと来ませんが、1キロ四方に15000人以上の人がいる計算になります。
住宅はもちろん密集している。
高層マンションは少なく、一戸建ての立派なお屋敷が並んでいるイメージです。
加えて、一部の幹線道路を除き道路が細く曲がりくねっていることで知られる、「タクシー運転手泣かせ」のエリアでもあります。
そんな世田谷区に存在する「異空間」。
それが、等々力渓谷です。
画面上部の赤印が、東急線の等々力(とどろき)駅です。
駅の周囲は典型的な郊外の住宅地になっていることが、航空写真からでもすぐわかります。
その駅の左側に、帯状に緑になっている一帯がある。
そう、駅から「谷底へ降りて」、歩いて本当にすぐのところに「別世界」が開けているのです。
鬱蒼とした緑の木々。
そのすぐ横に、小さな散歩道が数百メートルにわたって整備されている。
ある意味、シンプルな風景ではあります。
ですから、観光客がわざわざ立ち寄るほどの有名・印象的なスポットとは言えないのでしょう。
また地元の人にとっては、すでに馴染みの風景のはず。
いずれにしても、その散歩道を行き交う人の姿はまったくありません。
自分だけ近所で「隠れた名所」を見つけたような、ちょっと得した気分になる「プチ散策路」です。
肩ひじ張らない親しみある敬語~関西弁の「〇〇してはる」。東海圏にも特有の表現が
敬語表現の奥深さ。
日本語の特徴でもあり、難しいところでもあります。
面倒くさい面は確かにありますが、そこをきちんと使いこなせることが素晴らしいとも思っています。
マナー講座や教科書的に紹介される敬語は、標準語をベースとしたものです。
たとえば、「〇〇している」を敬語表現する際には、「〇〇される」あるいは「〇〇していらっしゃる」とするのが正しい、と教えられています。
そんな敬語表現ですが…
言葉そのものに「おくにことば」があるように、敬語表現にも地方によって独特な言い回しがあります。
代表的なのが、
関西弁の「〇〇してはる」(〇〇したはる)
という言い方。
おエライ方の所作を敬語表現する時。
たとえば社長が何かを発言している時、
標準語ベースだと「社長が〇〇とおっしゃる」
になります。
文章的には間違いではないのですが、特に会話の場合、話の流れの中でそこの部分だけ異様にかしこまり過ぎて不自然に響くことが時々あります。
社長といえども、同じ社内の人間。
話したこともある間柄であればまだしも、本人のいないところでそこだけ敬語を使うのもヘンだなぁと感じてしまいます。
そんな時、関西では
「シャッチョウさんが〇〇って言うてはるわ」
的にしゃべるのです。
文字だけでニュアンスをうまく伝えるのが難しいのですが…
「シャチョウ」のアタマの部分にアクセントを置く。
間に小さい「ツ」が入って「シャッチョウさん」的に響く。
一種ユニークなイントネーションとも合わせて、
ただ「言う」とぶっきらぼうにでもなく、
「おっしゃる」と言うほど堅苦しくもない、
それでいて、ちゃんと敬う気持ちのこもった親しげな響きになるのです。
初めて転勤で関西に住んだ際のこと。
自分では関西弁はしゃべれないのですが、そうした言葉のやりとりを聞いていて、その「適度な親近感と敬愛感」のバランスが絶妙でイイなと思ったものでした。
ちなみに、東海圏(愛知県・岐阜県近辺)にも、ユニークな敬語表現があります。
その特徴は、「〇〇している」を「〇〇して『みえる』」と表現すること。
生粋の名古屋弁と言えば、「エビフリャ~はごちそうダガヤ!」と揶揄されるほどイントネーションが特徴的なおくにことばのひとつです。
ただし、関西人が「全国各地どこへ行っても、何があっても関西弁」なのに対し、名古屋の人たちは標準語的イントネーションへの柔軟性が高く、一見出身地が判別できません。
でも、何かの拍子にこの「~してみえる」が出ると、「あぁ、名古屋出身ですね!」であることがすぐわかります。
ほかの地方でも、特有な敬語表現があるのかもしれませんね。