スマホは生活を豊かにする「手段」のはずなのに、いつしか貴重な時間を費やす「目的」になってしまっている
通勤電車に乗る。
6~7人掛けのベンチ式シートに座っていて目を開けている人は、(もはや「ほぼ」ではなく)全員スマホに目を注いでいます。
立っている人でさえ、混雑の中スマホを操作するための「自分の空間」をムリヤリ確保して、画面にくぎ付け。
街中の歩道は、今さら言うまでもなく、歩きスマホする人であふれ返っています。
迷惑だなんだと、ひとりこの場でボヤいても仕方ないこと。
他人のことをあれこれ言うよりも、
自分自身はどうなのか?
振り返ってみることにしました。
確かに、手のひらサイズの物体ひとつであらゆる情報を得ることが出来て、大変便利ではある。
ただ、便利がゆえにそれに「溺れて」しまいがちになる。
スマホに限ったことではありませんが…
「情報を得る」と言えば、本来何かしらの「目的」があって、そのために必要なものを調べる「手段」のはずです。
スマホの登場とともにそれがいつの間にか、「手段」そのものが「目的」と化してしまっています。
何かほかにやりたいことや知りたいことがあって、それを成し遂げる・解決するために必要があって、そのためにスマホを使うケースはあります。
ところが、SNSでメッセージを発信する、音楽を聴く、ゲームをする…
スマホを扱うこと自体が、生活の目的になっているような気がします。
自分はどうだろう?
メール。
これは、公私とも気になってちょいちょい覗いてしまいます。
重要度の高い用事であることが多いので、メールに関しては必要です。
ブログ。
「メッセージ発信」のツールとして使えます。
でも、外出先でまでスマホでのフォローはしていません。
出かけるからには、たいていもっと大事な用件があるからです。
音楽。
外で音楽を聴くことも出来ます。
でも自分は、移動等の慌ただしい空き時間にではなく、落ち着いた気分で環境を整えて聴くことに集中したいので、そのためにスマホ・イヤホンは使いません。
ゲーム。
まったくやらないので、わかりません。
1日のうち、仕事や食事・睡眠以外の貴重な「空き時間」のうちかなりの部分を、スマホとの付き合いに費やす。
それ自体が「目的」であり、その目的を通じて「達成感・充足感」を得られるなら、それはきっと正しくて素晴らしい付き合い方なのでしょう。
しかし、それが毎日。
1年、数年、ずっと続いた時。
極端な話、おそらく生きている限り。
「スマホと一緒に貴重な時間を使えて幸せな人生だった」と思えるなら、それがベストです。
たかがスマホで人生云々とは、仰々しい話かもしれませんが。
いまや、スマホなしでは暮らせない時代。
私も、日常生活からスマホを手放すことはできません。
でも、「スマホに触れることが目的になっている」生活が幸せとは、やはり思えないのです。
1日を振り返った時、限りある時間を「ついついスマホ」の蓄積に奪われてしまうのは、やはりもったいなく思えて寂しいです。
最近よく見かけるのは、カップルや友人同士で会って集まっていても、互いが無言でスマホを覗いている風景。
せっかく顔を合わせる時間を作ったのなら、「話す」ことをもっと楽しんだらいいのに…
当人たちにとっては普通のことなのでしょうが、なんだか不思議な光景です。
ヒトのことは構わないとして、自分の周囲でも似たようなことがあります。
みんなでしゃべっている最中も、スマホを握りしめたまま目を離さない人(少なくとも手からは離さない)。
しゃべっているテーブルの隅に、常にスマホを置いたままにしている人。
けっこういます。
人との会話より、スマホに意識が向いていることは明らかです。
何のために、貴重な時間を割いて集まっているのだろう?
目の前にいる人の存在を、空気のようにしか思っていないのだろうか?
そんなスタンスを気にする私の方が、おかしいのでしょうか…