さえわたる 音楽・エンタメ日記

オリジナル作品紹介、歌の解説、ヴァイオリン演奏、言葉の使い方、エンタメニュース、旅行記などについて綴っています

「備え」のある生き方は理想かもしれないが、意識し過ぎると…

毎日のように騒がれる「人生100年時代には、老後の備えが必要」。

若い世代の方々には、内容は理解できても、正直自らのこととして実感できる話題ではないと思います。

 

お金の備えは、ないよりはあった方がイイに決まってます。

そうした大層な話でなくても、ふだんの生活でも「備え」が大切だなぁと思う場面がよくあります。

 

災害が起きた時のために、緊急避難道具は準備しておいた方が確かに良い。

もっと日常的な話で言えば…

冷蔵庫の中身が乏しくなったら、早めに買い出しをしておきたい。

洗剤やボディーソープは、常に最低1本は手つかずの在庫を確保しておきたい。

リモコンが切れた時のために、すぐに必要ではないけれど乾電池を引き出しに入れておきたい。

学校の夏休みの宿題は、早めに済ませておかないと気が済まない。

仕事もキリの良いところまで仕上げないと、なかなか帰宅できない。

 

単なる「モノの備え」ではなく、「生き方・考え方の備え」に話が及ぶと、その人の人生観に関する問題になってきます。

「備え」を行った=気持ちにゆとりを持てたことで安心感を得る。

逆に、常に「備え」がないと気になって安心できない。

 

ブログで例えれば、
「いったん始めたのだから、毎日更新しよう」
「忙しくて書けない日もあるから、予約投稿を活用して更新が途切れないようにしよう」

「ネタが途切れぬよう、気が付いたらタイトルだけでもメモっておこう」
「アクセスはあるのにスターがつかない。登録読者がひとり減ってしまった。やはりコラムの内容がつまらなかったのだろうか」

そこまで行くと、もはやビョーキです。

 

そんな性格の持ち主を、世間では「几帳面」と呼んだりします。

生真面目で物事を計画的に推し進める、羨ましい性格などと言われることもあります。

確かに、グータラ・モノグサ・テキトーと称される性格より一見マシなところもあるかもしれません。

でも、几帳面な性格の持ち主は、物心ともに「備え」を重視し過ぎて、「〇〇は〇〇でなければならない」という強迫観念がストレスになりがちです。

テキトーに対処していても、時が解決してくれたり、その時の状況や環境によって、たいていのことは結果的に丸く収まるものだったりします。

だったら、そのプロセスにおいてもあまり深く考えすぎず気楽に構えていた方がずっと素晴らしい。

 

「いい加減」はネガティブな言葉ではなく、文字通り「良い加減」=「ちょうどいい塩梅」な状態なのかもしれません。

 

 

 

 

【懐かしい歌No.6】「メロディー」玉置浩二

1996年に発売。

1983年、彼がヴォーカルとして所属していた「安全地帯」が「ワインレッドの心」で世の中に出て、以降「恋の予感」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」などのヒット作を連発します。

 

これらはすべて彼の作曲によるもの。

どこか童謡唱歌を思わせるような、懐かしさを覚える玉置メロディーが個人的に好きで、中でも86年に発表された「Friend」は、私が某カラオケコンクールでグランプリを獲得した曲ということもあって、今でも時々歌っています。

 

そんな中今回選んだのは、安全地帯が活動停止中彼がソロでリリースしたこのナンバー。

安全地帯としてのヒット曲は、作詞を別の作詞家が担当していましたが、ソロナンバーは彼自身が作詞・作曲とも手掛けている場合が多いです。

この曲もその例外ではなく、詞の切なさと優しいメロディーラインとがぴったりマッチしています。

今回シングルの音源ではなく、あえてステージ歌唱バージョンからベストと思われるものを探しましたが、「良い曲には派手なアレンジは不要」を改めて思い知らされるほど、冒頭シンプルな伴奏に乗せて語りかけるように歌う声が、そっと心に響いてくる気がします。

 

声質・声量・表現力…総合的に、男性ヴォーカリストとして自分の中ではNo.1です。

 

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ソロアイドル史第15章~1985年デビュー組

この年が、伝統的な「ソロアイドル」時代のひとつの区切りであったと感じる1985年。
それは、アイドルの概念を変えたとも言える「おニャン子クラブ」の登場です。

それまで一種の「高嶺の花」的存在だったアイドル界に「素人っぽさ」「団体行動」の要素がいきなり織り込まれて来たような印象を受けたものです。
それ以前のグループユニットはせいぜい2人か3人、60年代のグループサウンズでさえ5~6人が主流だったのが、いきなり10数名が一斉にステージに上がり、学芸会のごとく歌う…
ファンならずとも興味をひかれるセンセーショナルな変化でした。

ユニットとしてのヒット曲は、デビュー曲の「セーラー服を脱がさないで」(セールス実績以上に話題を呼んだ)が圧倒的で、「およしになってティーチャ―」「じゃあね」とシングルリリースは続きますが、デビュー曲ほど記憶に残ってはいません。
斬新だったのは、(主に翌86年からですが)全体からソロや2人組、3人組などとして「分離独立」デビューをするシステム。
そして、彼女らが交代で1週ずつ瞬間風速的にオリコン1位の座を奪っていく、そんな構図さえ生まれました。

15歳でデビューし、デビュー曲「C」、そして「生意気」「Be-Bop-Highschool」と立て続けにヒットを飛ばしトップアイドルとなった中山美穂
この年のレコード大賞最優秀新人賞を獲得しました。
90年代に入ってCDセールスが全盛だった時代には、WANDSとともに「世界中の誰よりきっと」をヒットさせるなど長く活躍、その後は女優に転身しています。

一番の対抗馬となったのが、本田美奈子です。
当時18歳と若干年長で、当初からアイドルより本格的シンガーを目指していた模様です(後のミュージカル出演や晩年の楽曲でそれが立証される)。
大人のムードを前面に押し出したデビュー曲「殺意のバカンス」が低調に終わった後、純粋アイドルソングの「好きだと言いなさい」をリリースするなど、制作陣にも迷走が見られましたが、「Temptation~誘惑」のヒットである種方向性が定まり、翌年4枚目の「1986年のマリリン」が代表作となりました。

斉藤由貴もこの年、松本隆作詞・筒美京平作曲のゴールデンコンビによる「卒業」でデビュー。
歌手としては「情熱」や「悲しみよこんにちは」、井上陽水のカバー「夢の中へ」などをリリースしていますが、今は女優としてのイメージが強いです。

アイドルとしての活躍はいまひとつながら、「バラドル」という新しいジャンルを生み出した立役者のひとりが、この年「瞳の誓い」でデビューした井森美幸
30年以上キャラクターがブレることなくTVで活動し続けているのは立派です。

くしくも後に同じバラドル路線で人気を得た森口博子も「水の星へ愛をこめて」でデビューしています。
彼女も、タレントとして息の長い活動を続けています。

彼女らとともに80年代後半のアイドルシーンをけん引したのが、南野陽子
デビュー曲「恥ずかしすぎて」は不調でしたが、3年目となる6作目の「楽園のDoor」で初のオリコン1位を獲得。
以降「話しかけたかった」「はいからさんが通る」をはじめ8作連続、通算9作で1位を獲得、大活躍します。

小林明子が「恋におちて」で大ヒットを飛ばしたのも1985年です。
この年にデビューしたということで新人賞の候補にはなりましたが、そもそもアイドルではなく、「優秀作曲賞」という特別賞(?)を受けています。

おニャン子」からの独立も始まりました。
この年トップでソロデビューしたのが「涙の茉莉花ジャスミン)LOVE」の河合その子
吉沢秋絵も「なぜ?の嵐」で続きます。

「会社の業務としての」ステージ活動

長く音楽に携わっていることで、人前に出てのステージ活動を多く経験して来たことはこれまでに都度触れて来ました。

それはあくまで仕事とは関係ないプライベートな活動。

しかし、「仕事の一環として」ステージに上る機会もあったのです。

 

仕事でステージ?

講演やプレゼンといった業務上の舞台ではありません。

仕事でありながら「音楽がらみ」で。

 

会社によって、また時代によっても違うのでしょうが、私の勤めた会社では、年に何回か「儀式」がありました。

オフィスビルのメンバー全員をホールに集めての、年末の「終業式」や年始の「始業式」。

加えて、勤続〇〇年の従業員を称えての「永年勤続者表彰式」。

定年を迎える社員を労う「定年式」。

その際、必ず行われるのが「社歌斉唱」でした。

 

そう、我が社には立派(?)な「社歌」があったのです。

私が入社したての頃は、ステージの裏手にピアノが格納されていて、式典の際には、社員でピアノの嗜みのある者による伴奏で社歌が歌われていました。

ところが、以前このカテゴリー内のコラムで述べたように、私の音楽活動が社内に知れるようになってから、こんなオファーが寄せられることになったのです。

 

「ヘタなピアノ伴奏で歌うよりも(確かに、あまり上手な演奏ではなかった…)カッコいいアレンジの『カラオケ』を作れないものか?」

「晴れの儀式なんだから、社歌を歌う時には舞台の上に立って『指揮者』をしてくれないかな?キミは背も高くてよく目立つし…」

 

かくして私は、会社のために自宅の音楽制作用コンピューターで「フルオーケストラバージョン」の社歌カラオケを作り、本番の際は毎回それを流しながら壇上で指揮棒を振る役割を担当することになったのでした。

 

これによって、単なる若造ながら、数百人が在籍するビル内で私を知らない人はいなくなりました。

その後仕事上でも、コミュニケーションが円滑に進むメリットもあったかもしれません。

 

 

 

 

 

全都道府県旅行記~宮城県

小6で東京に戻って以降、宮城県には意外に早く再訪の機会がありました。

高校1年の時の修学旅行先が岩手・宮城だったのです。

岩手県」編でもすでに触れましたが、平泉・中尊寺を見学したあと宮城県入り。

鳴子温泉で宿泊し、翌日は仙台市内でグループ行動、というコースでした。

この時は、県内の訪問地はこのだ2か所けでした。

 

当コラムに書いているような旅をしてみたい、そう思い始めて実際動き始めたのは、ずっとあとになってからのこと。

個人的な思い出の地、石巻にはその後ずっとご無沙汰状態でした。

ところが、あの「3・11」で、石巻の地名は(悪い意味で)一気に知名度が上がってしまい、かつて暮らした街がどうなってしまったのか、この目で確かめたい衝動にかられました。

 

忙しさの合間をぬってようやく時間がとれたのは翌2012年末、おりしもクリスマスイブの日でした。

石巻は、太平洋のすぐ近くに中心街や住宅地がある市です。

小学生時代にあった百貨店はとっくに閉店、ささやかながら存在していた繁華街は完全にシャッター通りと化し、クリスマスシーズンにもかかわらずまったく人影がありません。

当時住んでいた家は高台にあったため、ほとんど変わらぬまま(時間の経過で老朽化はしたものの)残っていたのですが、母校は海から1キロも離れていない場所にあり、「津波火災」(そんな気象現象があることをこの時初めて知りました)で全焼してしまっていました。

学区域だった付近の住宅密集地は津波で建物がすべてなくなり、見渡す限りの更地になっていました。

 

その様子は被災直後のニュースでも放映されており、2011年の紅白で長渕剛が廃墟となった母校の校庭から中継で歌ったこともあって、だいたいの様子はわかっていたのですが、やはり自分の目で確かめたかったのです。

校舎は、骨組みだけを残して1年半以上そのままの状態で放置されていました。

 

それからはや7年以上、それ以降訪れる機会はなく、どうなったかはわかっていません…

 

かつて暮らした街~小学生にはインパクトが大きすぎた宮城県への引っ越しその2

小2の終わり、親から突然「4月から引っ越すことになったから」と告げられました。

出生地の熊本から東京に越してきた記憶はほとんどありませんし、幼稚園も小学校も東京で普通に通い続け、そんな東京の地を離れることなど考えたこともありませんでした。

転校を余儀なくされ、仲良しの友だちと別れるのが悲しくて仕方なかった記憶が、今でも鮮明に残っています。

 

転居先は石巻市でした。

当時も、そして現在も仙台に次ぐ県内第2の都市。

しかし、政令指定都市で大都会の仙台に比べると、信じられないほどの小さな田舎の港町でした。

その頃はまだ新幹線もなく、東京から仙台までは在来線の特急で4時間もかかり、さらにローカル線で1時間半ほど行ったところにあります。

実質東京しか知らなかった8歳の少年にとっては、「地の果て」に連れて来られたような感覚でした。

 

転居のショックの原因は、単に地理的な距離だけでなく、文化的なギャップにもありました。

「言葉の壁」です。

標準語の環境で育った身には、地元の東北弁が外国語のように感じられたのでした。

それを、転校初日から味わうこととなったのです。

 

教室で転入生のあいさつをさせられて自分の座席に付く。

ところが、周りの会話の内容がわからないのです!

ただでさえ転校生は「よそ者」なのに、ますます距離が遠のいていきます。

 

そんな違和感は、受け入れ側にも少なからずあったようです。

当時の思い出が強烈だったので今もはっきり覚えているのですが、約40人いたクラスメートのうち、生まれてから石巻市を一度も出たことのない人間が半数以上いた。

そんな時代でした。

県内の仙台でさえ知らない人間がほとんどの環境に、テレビでしか聞いたことのない得体の知れない言葉をしゃべる東京人がやってくる。

どう接してよいかわからない。

もうほとんど「異星人」扱いです。

 

1年生2年生の時は、クラスみんなと何の問題もなく仲良く過ごしていたのに、引っ越したとたん教室でまともな会話もできない…

そんな状態が1か月以上続きました。

そして、それはやがて「仲間外れ」へと発展していきます。

今で言うと、一種の「いじめ」だったと言えるかもしれません。

 

幸い、担任の教師に恵まれてうまくサポートされたのと、そんな環境の中でも仲の良い友人が数名出来たことでなんとか乗り切り、小6の夏休みに再び東京に戻ることが出来たのでした。

 

当時は「暗黒の4年間」とも思えた時代でしたが、あとで振り返るとイヤな出来事はいつしか消え失せ、不思議なことに懐かしい思い出だけが残るようになるものです。

大人になってから、改めてかつての土地を訪ねる旅にも出かけました。

 

それは、どうしても訪ねずにはいられない大きな出来事が起こったからでもあります。

そう、記憶に新しいあの3・11。

石巻は不運にも、その中心的な舞台となってしまったのでした。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

かつて暮らした街~小学生にはインパクトが大きすぎた宮城県への引っ越し

当コラムでは「旅の思い出」のカテゴリーで、これまでに足を踏み入れた全47都道府県の旅行記を連載していますが、これまでに実際「住んでいる」あるいはかつて「暮らしていた」都府県は、「旅先」だけではなく「我が街・暮らした街」としてもお話ししていきたいと思います。

 

私は現在東京在住ですが、これまで暮らしたことのあるのは5都府県。

東京のほか、宮城・京都・大阪・熊本に住んでいました。

本籍地は東京、土地も家も東京にあるので、地元は間違いなく東京なのですが、親の仕事の都合で「出身地(出生地)」は熊本、また小学校時代(3年生~6年生)を宮城で過ごしました。

また、今度は自分の転勤で、関西(京都・大阪)にも通算10年以上暮らしました。

東京都内でも引っ越しを繰り返し、6つの住所を経験しています。

 

3歳の時に熊本から東京に戻っているので、生まれた土地の記憶はほとんどないのですが、大人になってから改めて旅もしていますので、宮城とともにいずれ「旅の思い出」として再び触れたいと思います。

 

なんだかんだでやはり東京在住が長いので、このカテゴリーで触れるのは都内のあちこちにちなんだ話題が多くなるとは思いますが、宮城県については在住4年間ながらしっかり物心のついた多感な小学生時代、私にとっては特別な思いのある場所です。

普通に東京で暮らしていた8歳の少年が、ある日突然見知らぬ場所に引っ越す…

今でも心に深く残る大きな出来事でした。

(つづく)

 

日本人の色彩感覚~繊細さと大雑把さ

日本語には、「色」に関して実にさまざまな呼び方があるなぁ、とふと思いました。

豊かな自然に育まれているせいもあってか、特に植物にちなんだ色の呼び名が多いような気がします。

 

調べると、JIS(日本工業規格)に「JIS慣用色名」というれっきとしたルールがあり、各色には識別コードが振られて細かく定義されているようなのです。

たとえば赤系の色だけ見てみても、そのものズバリの「赤」というのもあるのですが、「つつじ色」「とき色」「ばら色」「茜色」「朱色」など、さまざま。

緑系であれば、「抹茶色」「こけ色」「わかば色」「もえぎ色」「若葉色」など。

厳密にどんな色、とは答えられなくても、なんとなく雰囲気ではわかります。

日常会話で使う機会こそ少ないものの、メディアや読み物で紹介されて目や耳に触れる表現も多々あり、「色」に限らず、こうした細かいニュアンスを繊細に感じ取れるセンスはいつまでも大切に残って欲しいと感じています。

 

一方で、色の呼び方に関してけっこう大雑把だなぁと思う面もあります。

 

たとえば、日焼けした肌のことをよく「真っ黒」と呼びますが、実際の肌の色はむしろ茶色。

その茶色、お茶の色であるとすれば緑茶、すなわち緑系の色であるはずですが、絵の具やクレヨンの茶色は土やレンガのあの色を指します。

調味料に仕上げた唐辛子、実際の色はオレンジ色と茶色の中間ぐらいのイメージですが、よく「まっ赤な」と言いますよね?

お絵かきでお日さまを書かせるとみんな赤色に塗りますが、実際の太陽は白。

その熱さのイメージが「赤」を連想させるからなのでしょう。

 

見た目の印象をわかりやすく表現するために、あえて実際の色ではない表現をしていることは百も承知ですが、双方のコントラストがちょっと興味深かったので書いてみました。

【懐かしい歌No.5】「九時からのりりィ」カプチーノ

今日も、知名度は低い、しかし個人的には大好きで30何年経った今も忘れられない名曲、カプチーノのデビュー曲「九時からのりりィ」をご紹介します。

 

発売は1981年のようです。

手掛けたのは、ピンクレディーの一連のヒット曲の生みの親、作詞・阿久悠、作曲・都倉俊一というスーパーコンビ。

女性ボーカル1人に対し、脇を数名の男性メンバーが固める構成は、さらに一時代前に活躍したペドロ&カプリシャスと同様のものでした。

(そのボーカルメンバーだった高橋真梨子は、ソロとして今も現役で活躍中)

 彼らも同じ阿久・都倉コンビにより「ジョニーへの伝言」「五番街のマリーへ」などをヒットさせており、「九時からのりりィ」を初めて聴いた時、カプチーノは彼らの後継者的位置付けのようにも思えました。

 

メロディーは、どこかしら郷愁を覚える王道のバラード。

短調で始まり、いつの間にか自然に長調に転調してサビを迎えるメロディー運びが、なんとも秀逸です。

アレンジ面でも、イントロ段階ですぐサビメロを活用してインパクトを強めるなど、細かい工夫が巧みになされています。

ボーカル・ニッキの芯のある太い声も魅力的に響いてきます。

 

言葉の方に目を転じると、「九時からの~」というタイトルだけでは一瞬何のことか意味がわからないのですが、冒頭の歌詞にあるように、夜の9時から古いクラブで、誰が聴くでもないBGM役としてピアノの弾き語りをしている主人公の切ない恋物語であることがじわじわと伝わってきます。

2番の歌詞「私のこの胸はメニューのないレストラン ほかの愛なんてもう選べない」のフレーズが、なんとも印象的です。

 

現在ではほとんど見られない「2コーラスだけで終わる(Dメロやリフレインがない)構成」ですが、4分の間に主人公の境遇・心境を含め、しっかりとひとつの「ドラマ」が刻まれている…

そんな感銘を強く受ける一曲です。

 

普通ならかなりマイナーな曲まで入っているカラオケにさえ入っていないほど、ヒットには恵まれなかった曲ですが、個人的にはずっと大事にしていきたい作品です。

 

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ソロアイドル史第14章~1984年デビュー組

80年代に花開いたアイドルブームは、85年、あの「おニャン子クラブ」の誕生によって「大量生産」時代に突入するのですが、それについては次回第15章にて述べるとして…

 

この年デビューしたソロアイドル、同じ4月に4人の女性アイドルがデビューしています。

まずは荻野目洋子。

デビュー曲「未来航海」は大ヒットには至らず、歌唱力を評価される実力派との呼び声に反してデビュー1年目はヒットに恵まれませんでした。

彼女の名が一気に知れ渡ったのが、デビュー2年目の85年、7枚目のシングルとして発売された「ダンシング・ヒーロー」。

その後「さよならの果実たち」「六本木純情派」などのヒットもありましたが、彼女の代表作と言えば間違いなくこれでしょう。

近年、あの「バブリー・ダンス」の流行で再び脚光を浴びたのは、記憶に新しいところです。

 

同じ4月にデビューしたのが、菊池桃子

デビュー曲は「青春のいじわる」でしたが、実績はいまひとつでした。

荻野目洋子同様、2年目の85年、4枚目のシングルとして発売された「卒業」が初のオリコン1位となり、その後「BOYのテーマ」「もう逢えないかもしれない」「SAY YES」などのヒット曲を連発し、その後3~4年ほどは清純派トップアイドルとして活躍していました。

シンガーとしては、およそ10年後鈴木雅之との異色のデュエット「渋谷で5時」が話題に。

その後は女優に転身、最近ではタレント活動と並び母校の客員教授を務めるなど、「文化人枠」の仲間入りをしています。

 

そして、「伝説のアイドル」となってしまった岡田有希子も、同じ4月のデビューでした。

竹内まりやから楽曲提供を受けた「ファースト・デート」でデビュー。

この年のレコード大賞最優秀新人賞を獲得しています。

彼女もデビュー曲よりその後のシングルでセールスを伸ばしていくタイプで、代表作となったのが、松田聖子作詞・坂本龍一作曲でも話題となったCMタイアップ、オリコン1位獲得の「くちびるネットワーク」。

同じ週に発売されたのが、今も毎年2月になるとよく流れる国生さゆりバレンタイン・キッス」。

これを抑えての1位獲得で、アイドルとしては絶好調の時期でしたが、惜しくもこの曲が彼女の遺作となってしまいました。

 

現在も演歌歌手として活動している長山洋子も、同じ4月にアイドルとして「春はSARASARA」でデビューしています。

当初から演歌歌手として出る予定があったようで、楽曲もすでに準備されたていましたが、まだ若すぎるとの声で急きょアイドルポップスとしてデビュー。

彼女も当初はヒット曲には恵まれませんでしたが、3年目の86年、洋楽のカバーとして発売された「ヴィーナス」がヒット。

93年には演歌歌手として「蜩」で再デビュー。

いつまでもアイドルのままではいられませんし、民謡出身であることを考えれば、うまい転身であったと思います。

 

男性陣で孤軍奮闘したのが、吉川晃司。

ジャニーズ系から連想されるアイドルというより、若手ロックシンガーのイメージでした。

デビュー曲「モニカ」がヒットして話題を呼び、アイドルとして一時代を築くとともに、その後88年に布袋とのユニットCOMPLEXも話題になりました。

そして現在も、グレイヘアの渋い俳優としての存在感を示し活躍中です。

アフター5の付き合い~楽しければいいけれど

仕事終わりに「ちょっと一杯、行かない?」。

どこの職場でもよくある光景でしょう。

特に今宵は金曜日…

 

この時のメンバーが気の置けない同僚だけであればまだ良いのですが、仕事がらみだとなかなかそういったシチュエーションにはなりません。

飲み会の良し悪しは、お酒や料理の良し悪しではなく、ひとえにメンバーに尽きる…そう感じています。

 

仕事で疲れた上に、その延長線上で仕事の話題について上司や先輩、嫌いな同僚からも聞かされる…。

「ちょっと一杯」と言っておきながら、本当に一杯で終わることはほぼ100%ありえません。

ヘタをすると、二次会に引きずり込まれたりします。

かと言って、おごってもらえるわけでもない。

これではまるで「金を払って行うサービス残業」です。

 

私自身飲めない体質ではなく、まぁまぁ人並みに飲めます。

ただ、家での晩酌は一切することがなく、アルコールがなくてもまったく平気です。

むしろ、アルコールなしで食事そのもののおいしさを味わいたい。

特に「白いお米」がないと、生きていけません。

通常の飲み会だと、おつまみ(酒の肴)はいろいろ充実していたりしますが、それがいくら豪華であっても、お米のメニューがないことが多く、満足できないのです。

 

また、高級な料理屋さんだと、前菜・煮物・焼き物…等々順番に出て、最後に漬物やみそ汁と共に白米が「少々」出されたりするのが定番ですが、「お米は料理と一緒に」食べたいので、ああいったコース料理はどうも好きになれません。

それでいて量は中途半端に少ないので、それでお腹がいっぱいになることもない。

リッチな食生活にはほど遠い小市民なんですね。

 

いくら安い居酒屋でも、外でお酒を飲むと高くつきます。

「この1回の飲み会代で、ごはんお代わり無料の定食屋に何回行けるだろう?」

「1回外食するお金をスーパーの買い物に充てたら、何日分暮らせるだろう?」

楽しくない飲み会に直面するたび、ついそんなことを思ってしまいます。

 

今でこそ少なくなりました(?)が、かつては泊りがけの社員旅行などもありました。

当然土日の休みを潰して、交通費・宿泊代自腹で、です。

当時は職場で下っ端だったので、幹事役を押し付けられて、夜の宴会では一発芸を強要されて、など、今ならばセクハラ・パワハラになりかねないことも普通に行われていました。

あの「悪夢」を考えれば、今はだいぶ健全になったと言えるかもしれません。

【番組紹介】「プレバト」は企画と出演者が秀逸

TBS系で木曜夜7時から放送中の「プレバト」。

現在、録画してでも毎週見ようと思う数少ないバラエティー番組です。

 

出演する芸能人が、「俳句」をはじめ「生け花」「水彩画」「料理盛り付け」「陶芸」などの「作品」に挑戦し、その道のセンセイに講評を受けランキングされるという、ほかの番組には見られないユニークなコンセプトです。

この企画を生み出した段階で、芸人や駆け出しの若手タレントばかりをひな壇に集め、トリビアネタをVTRで紹介して、スタジオ収録の間だけ「へぇぇ~!」「すごぉ~い!」レベルのコメントだけ言わせているだけの番組とは「重み」が異なる印象があります。

なぜなら、出演者たち(ベテランから若手までさまざま)は、この番組へのオファーを受けた段階で、単にその時間出演するだけでなく、本番までに指定の「お題」で作品を仕上げなければならないからです。

 

作るモノが何であるにせよ、ひとつの作品を完成させる「産みの苦しみ」は、ハタで眺めているよりはるかに厳しい!

私自身がふだん「歌」という作品作りに取り組んでいることもあり、その大変さはとても肌で実感できます。

 

また、バラエティーでは通常MCが主役ですが、この番組では企画の性格上、作品を査定する「講師」のあり方も大きなポイントとなります。

単にその道のプロである、というだけだなく、そのタレント性=「テレビ映え」するかどうかも重要な要素です。

 

通常、1時間のうち前半は必ず俳句、後半はその他のコーナーになりますが、時間配分は俳句が6割から7割を占める場合が多いです。

とりもなおさず、それだけ俳句コーナーの人気が高いことの証でもあります。

日常生活ではあまり馴染みのない俳句をゴールデンタイムのど真ん中に定着させたのは、何と言っても講師役の俳人・夏井いつき女史の功績が大きいと感じます。

 

出演者の老若男女を問わず、作品が悪ければバッサリと切り捨てる「毒舌」は、いまやこの番組の名物ですが、この毒舌こそが痛快で、だからこそ毎週なにはなくとも俳句のコーナーが放送されるのでしょう。

単に毒舌=悪口かと言うと決してそうではなく、講評はきわめて的確かつ丁寧。

また、俳句という「言葉」を生業としているだけあって、よくよく聞いていると、敬語はもちろんのこと、言葉づかいが実にしっかりしていることがわかります。

さらに、このご時世にあってあえて「ゆっくり」喋っている点も、最近には珍しい大きな特徴です。

 

MC・浜田雅功の「場を取り仕切る」能力は、この番組に限ったことではないし、今さら言うまでもなく素晴らしい。

各「名人・特待生」たちのキャラクターの魅力ももちろんあります。

しかし、こと「プレバト」に関して言えば、夏井センセイの存在なしには成立しえない…。

そこを「強く褒めたい」(=センセイの口ぐせ)と思います。

 

「完全」週休2日制の意味はわかっていたが…

求人広告の雇用条件として、給料や勤務時間とともに必ずあるのが「休日」についての記載です。

 

日本で週休2日制が始まったのは1970年代頃と言われていますが、世の中に定着したのはもう少し後のようです。

かつて学校は土曜日通学していましたし、企業の土曜日出勤も当たり前でした。

土曜日だけ午前中までの勤務、いわゆる「半ドン」なる言葉もありました。

銀行も、今では土日完全に休みですが、当初は第2土曜日だけ休みでした。

 

「週休2日制」と聞くと、毎週2日休みがあるような語感がありますが…

月のうち1週でも「1週間7日のうち休みが2日ある」のが単なる「週休2日制」で、どの1週間7日のうち2日が「必ず」休みになる場合のみ「完全週休2日制」です。

極端な話、1か月のうち1週だけ2日(たとえば日曜・水曜)休みがあって、あとは月曜から土曜までビッシリ働く場合でも、表現としては「週休2日制」にはなるわけで、誤りではないけれど、働く側からすると「月に5日しか休みがなくても週休2日制」っていうのはちょっとズルい感じがしますね。

 

「完全週休2日」と言うと、なんとなく「土日休み」と解釈してしまいますが、休みが飛び飛びであっても(たとえば月曜・木曜)「完全週休2日制」ではあります。

私自身、一時期実際こういう勤務形態の会社に在籍していたことがありました。

もちろん「完全週休2日」の意味はわかっていて、

「土日連続じゃなくても、結果的に同じ日数休めるからいいじゃん!」

「土日勤務だと通勤ラッシュも緩和されるし、平日に休みがとれれば、役所や銀行など平日しか出来ない手続も出来て便利」

など、メリットの方に目が向きがちでした。

 

それはそれで事実だったのですが、それまで長年「土日休みが当たり前」の生活をしていた身にとって、この環境変化の影響は意外に大きいものでした。

「平日5日間は仕事して、休みは連続してあるのだから1日は安心して存分に遊んで、もう1日は元気ならば遊ぶ、疲れていたら休養に充てる」、そのリズムが思いのほかカラダに定着してしまっていたことに気づかされたのです。

 

休みが飛び飛びになると、確かに連続勤務の日数は2日ないし3日になってその分は一見ラクなのですが、2日働いても5日働いても、働き終わったあとの疲れは大して変わらないことが体感的にわかってきたのです。

休みが1日しかないと、(気持ちの持ちようも大きいのでしょうが)「気分転換」「遊び」の気持ちが半減して、即「明日はまだ仕事だ…」モードになりがちです。

1日単位の休みだと、「休養」は出来ても「リフレッシュ」効果はなかなか期待できないものだと感じました。

さらに、土日が休みでないと、友人と遊ぶにもスケジュールが合わないことが多いことを思い知らされ、これは大きな痛手でした。

 

同じ「完全週休2日制」でも、しっかり働いて「土日は連続して休んでリフレッシュ」が、私にとってはベターです。

 

「パンツ」と堂々と言える時代

前にも述べたように、「衣食住」の「衣」=ファッションの部分にはこだわりを持たない生活をしています。

こだわりを「持たない」と言うより「持ちたくても持てない」と言った方が正しいかもしれません。

 

ファッションへの憧れはあるのです。

ただ、人並み外れた長身のために、それを叶えてくれるサイズの服に巡り会えないのです。

多少気に入らない部分はあっても、サイズに合わせて着るしかない、そんな感じです。

 

そのため、最新の流行情報にはまったくついていけていません。

世代的に単に時代の流れに追いついていけない、それだけのことだったりもしますが。

ですから、服飾品の呼称の変化にもまったく疎いです。

 

ジャケットの内側に着る「ベスト」。

かつては「チョッキ」と呼んでいました。

さすがに今では「チョッキ」と呼ぶことはなくなりましたが、最近は「ベスト」さえも古臭くて、「ジレ」と呼んだりするとかしないとか…

「スパッツ」の呼称も時流に乗っていなくて、最近は「レギンス」?

両者に明確な違いがあるのか、単にオシャレ度だけの話なのかさえもわかりません。

ジーンズ」も、今では「デニム」と呼ぶのが一般的、なのでしょうか?

 

そんな中、一番インパクトがあったのは「パンツ」。

現代では、男女問わずアウターとして身に付けるかつての「ズボン」が、普通に堂々と(!)「パンツ」と呼ばれています。

「パンツスーツ」なんて呼び方も、ごく一般的です。

 

幼い頃「パンツ」と言えば、間違いなく「下着」を指すものでした。

小学校では「あいつ、寒いからって毛糸のパンツはいてるぜ!」などとからかう光景も見られました。

何と言っても下着の呼び名ですから、人前で口にするのははばかられる感覚がありました。

 

では、「ズボン」が「パンツ」となった今、かつての(下着としての)パンツはどう呼ばれているのか?

同じ「パンツ」の名を文脈でアウターかインナーかを判別する場面ももちろんありますが、下着をストレートに「パンツ」と呼ぶ機会が、最近では少なくなってきたように思えます。

(男性の場合ですが)より細分化されて、「ボクサー」「トランクス」「ビキニ」(男性用の服にビキニという名前が登場するのもある種驚きですが…)と呼ばれているような…。

 

これも、イメージを重視するファッション業界の戦略のひとつなんでしょうね。

「コンサート」は死語?

私がこのカテゴリーでこれまでのステージ活動を語って来た時、主に使っていたのは「コンサート」という言葉でした。

人前に出て何らかのパフォーマンス(特に音楽活動)を行う場合、それが一番伝わりやすいと考えたからです。

(これが歌や音楽でなくお芝居になると、よく「舞台」って言われますよね?)

 

それはさておき、最近は「コンサート」に代わる言葉がググっと台頭しています。

そう、「ライブ」です。

 

スポーツ中継や一般のニュース番組でも、生放送であることを示すために、画面の片隅に「LIVE」の文字が出ることがよくあります。

LIVEとは、ステージやコンサートにかかわらず、広く「ナマ」の意味合いを持ちます。

しかしその言葉が音楽に限定されて、「コンサート」と言われていた活動を「ライブ」と呼ぶことが一般的になってきているような気がします。

(イントネーションも「ラ」イブではなく、ラ「イブ」)

その方が臨場感があって、「カッコいい」というイメージなのでしょう…

「コンサート」は、もはや死語でしょうか?

 

ロックやポップスの世界では「ライブ>コンサート」の状況ですが、クラシックではたとえ同じ生ステージ活動であっても、通常「ライブ」とは呼びません。

コンサートでさえなく「演奏会」と呼ぶのが通例です。

 

これらとは別に、ステージ活動には「リサイタル」という言葉も存在します。

最近は使われる場面も少なくなって、これこそ死語?という感じもしますが。

こちらは比較的定義がしっかりしていて、演奏者が1人またはごく少人数、かつクラシックやシャンソンなど「ソフト」な音楽ステージの際主に使われるようです。

「ロックのリサイタル」って、聞いたことがありませんよね?

 

同じステージ活動であっても、スタイルはそれぞれ。

何でも「ライブ」で総称されてしまうのは、ちょっと寂しい気がします。