かつて暮らした街~小学生にはインパクトが大きすぎた宮城県への引っ越しその2
小2の終わり、親から突然「4月から引っ越すことになったから」と告げられました。
出生地の熊本から東京に越してきた記憶はほとんどありませんし、幼稚園も小学校も東京で普通に通い続け、そんな東京の地を離れることなど考えたこともありませんでした。
転校を余儀なくされ、仲良しの友だちと別れるのが悲しくて仕方なかった記憶が、今でも鮮明に残っています。
転居先は石巻市でした。
当時も、そして現在も仙台に次ぐ県内第2の都市。
しかし、政令指定都市で大都会の仙台に比べると、信じられないほどの小さな田舎の港町でした。
その頃はまだ新幹線もなく、東京から仙台までは在来線の特急で4時間もかかり、さらにローカル線で1時間半ほど行ったところにあります。
実質東京しか知らなかった8歳の少年にとっては、「地の果て」に連れて来られたような感覚でした。
転居のショックの原因は、単に地理的な距離だけでなく、文化的なギャップにもありました。
「言葉の壁」です。
標準語の環境で育った身には、地元の東北弁が外国語のように感じられたのでした。
それを、転校初日から味わうこととなったのです。
教室で転入生のあいさつをさせられて自分の座席に付く。
ところが、周りの会話の内容がわからないのです!
ただでさえ転校生は「よそ者」なのに、ますます距離が遠のいていきます。
そんな違和感は、受け入れ側にも少なからずあったようです。
当時の思い出が強烈だったので今もはっきり覚えているのですが、約40人いたクラスメートのうち、生まれてから石巻市を一度も出たことのない人間が半数以上いた。
そんな時代でした。
県内の仙台でさえ知らない人間がほとんどの環境に、テレビでしか聞いたことのない得体の知れない言葉をしゃべる東京人がやってくる。
どう接してよいかわからない。
もうほとんど「異星人」扱いです。
1年生2年生の時は、クラスみんなと何の問題もなく仲良く過ごしていたのに、引っ越したとたん教室でまともな会話もできない…
そんな状態が1か月以上続きました。
そして、それはやがて「仲間外れ」へと発展していきます。
今で言うと、一種の「いじめ」だったと言えるかもしれません。
幸い、担任の教師に恵まれてうまくサポートされたのと、そんな環境の中でも仲の良い友人が数名出来たことでなんとか乗り切り、小6の夏休みに再び東京に戻ることが出来たのでした。
当時は「暗黒の4年間」とも思えた時代でしたが、あとで振り返るとイヤな出来事はいつしか消え失せ、不思議なことに懐かしい思い出だけが残るようになるものです。
大人になってから、改めてかつての土地を訪ねる旅にも出かけました。
それは、どうしても訪ねずにはいられない大きな出来事が起こったからでもあります。
そう、記憶に新しいあの3・11。
石巻は不運にも、その中心的な舞台となってしまったのでした。
(つづく)