さえわたる 音楽・エンタメ日記

オリジナル作品紹介、歌の解説、ヴァイオリン演奏、言葉の使い方、エンタメニュース、旅行記などについて綴っています

ソロアイドル史第7章~1977年デビュー組

1977年、レコード大賞の最優秀新人賞はまったくタイプの違う、そして実績的に誰がとってもおかしくない3組の争いとなりました。

 

それは最後に述べるとして、最もアイドルらしいアイドルとしてデビューしたのは、現在もタレントとして画面によく登場している榊原郁恵でしょう。

当時「ホリプロスカウトキャラバン」のグランプリとして、鳴り物入りのデビューを果たしました。

デビュー日が1月1日というのも、事務所サイドの力の入れ方を物語るものでしたが、デビュー曲「私の先生」(なんともシンプル?なタイトル)はあまり知られることなく、途中4枚目のシングルとして「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」という長いタイトルの曲、およびその次の「いとしのロビンフッドさま」が少し話題になったこともありましたが、のちに彼女の代表作となる「夏のお嬢さん」が生まれたのは、デビューから1年半経った翌1978年7月のことでした。

歌手としてシングルをリリースしていたのはその後数年ほどでしたが、40年以上経った今でもTV出演が続いているという意味では、この年のトップタレントと言えるかもしれません。

 

10代女性、という観点では、セールス的に実績を残したのは高田みづえでした。

デビュー当初の楽曲の作風は、演歌ではないけれどアイドル・ポップスとはまた違う独自路線でしたが、デビュー曲「硝子坂」は当時かなりヒットし、その後桑田佳祐との出会いで「私はピアノ」「そんなヒロシに騙されて」などの楽曲を残します。

 

そしてもう一人、「お元気ですか」でデビューした清水由貴子も同期です。

当時レコード大賞新人賞枠は5つで、その年は順番に1人ずつ発表していき、最後の5枠に榊原と清水が残り、結果榊原が入賞したのですが、落選した瞬間アップになった清水のなんとも言えぬ寂しげな表情を(その後の彼女の人生と重ね合わせて)今も忘れることが出来ません…

 

「スプリングサンバ」「コメットさん」で知られた大場久美子も、当時のアイドルでした。

 

冒頭の「トップ3」は、高田みづえ清水健太郎、そして狩人でした。

ちなみに最優秀新人賞は清水健太郎でしたが、「新人」のイメージは当初からあまりありませんでした。

「最〇端の駅」探訪その4~最東端

東西南北シリーズの最後、一番最近に訪れたのは「最東端」の駅です。

日本列島の形から容易に想像できるように、北海道・根室市にそれはあります。

 

最東端の「終着駅」は根室駅になるのですが、そのひとつ手前に東根室駅があり、ここが鉄道駅としての最東端です。

ここにも「日本最東端の駅」の碑がありましたが、ほかに駅舎らしい建物もなく、降り立ってしまうと身動きがとれなくなりそうだったので、数秒だけ降り立って自分の「足跡」(?)を残し、すぐに列車に戻って終点の根室駅へ。

 

根室まで来れば、やはり最東端「地点」を目指したいと、バスに乗り換え40分ほど、納沙布岬に赴きました。

ちなみに、こちらは「のさっぷ」岬。

稚内から足を伸ばして行ったのは「ノシャップ」岬です。

 

駅同様、こちらにも「日本最東端の地」の碑がありました。

ひとりで出かけたので、近所のお土産屋さんにケータイを渡して記念写真を撮ってもらいました。

ほかにも灯台や、「四島(しま)のかけはし」といったシンボル像が見られ、そのふもとには広島の平和記念公園のように火が灯され続けています。

最東端、すなわち北方領土にいちばん近い場所ゆえ、海のはるか向こうに、歯舞諸島の一部がわずかに見渡せます。

 

市内のあちらこちらには「北方領土返還」の垂れ幕が数多く見られ、地元意識を改めて思い知らされます。

幹線道路の青い方向看板に、日本語表記と並んでロシア語表記があるのを、ここ根室で初めて見ました。

 

旅先が北海道だったため、鉄道のみを乗り継ぐにはあまりにも遠く、東京から釧路までは飛行機、そのあと根室本線(通称花咲線)で2時間半ほどかけて根室までたどり着きました。

途中の釧路も、道東の中心地として外せない場所。

根室に1泊、釧路に1泊の旅程だったため、あの有名な釧路湿原を見逃すテはないと、トロッコ列車に乗り出かけました。

さすが国立公園、展望台から眺めた一面の湿原風景は圧巻。

iTunes Storeで配信している私の楽曲のジャケット写真に使用していたこともあるほどです)

市内もいろいろ歩きましたが、根室同様、真夏だというのに長袖のジャケットが必要なほど涼しかった(肌寒かった)印象が今も強く残っています。

 

北海道は感動的なスポットをほかにも体験しているので、今後も触れていきたいと思っています。

「できちゃった婚」を放送禁止用語扱いする風潮について

昨日「入籍」の話を書いて、思い出しました。

芸能人のプライベートネタといえば、今も昔も変わらず結婚・離婚・出産ですが、結婚に付属するニュースとして、女性が妊娠しているかどうかも付帯した報道が非常に多く見受けられます。

 

 「〇〇さんは妊娠はしておらず~」

よく聞かれるこの表現です。

 

「そんなの当たり前。なぜあえて言う必要があるの?」って思います。

結婚してから、最短でもいわゆる「十月十日」を経て赤ちゃんが生まれるのが大前提ですから、あえて上記の報道がなされるのは、その鉄則が破られる、つまり期せずして妊娠「してしまった」から(順番が逆になった責任をとって)結婚するケースがいかに多いかの現われなのかもしれません。

仁義にもとる、は言い過ぎとしても、一般的な社会通念上決して褒められた行為ではないものではないか、と感じます。

 

この事態、かつては「できちゃった婚」と呼ばれていました。

なんとも滑稽な言い回しと思いつつ、まさに言い得て妙。

ある意味恥ずかしく、もっと言えば無責任とも言える彼らを称するのにふさわしいとさえ思っていました。

 

ところが、この言葉が最近「おめでた婚」「授かり婚」などという奇妙な言葉にじわりじわりと言い換えられています。

これらは普通に結婚してから赤ちゃんを授かる「おめでたさ」を表わすもので、その順番が逆になってしまう情けないニュアンスは「まったく」含まれていません。

しかし、「授かり婚」はいまや「できちゃった婚」に代わる言葉になりつつあるようです。

妙な言い方だと思います。

 

先日も生放送の情報番組で、「できちゃった婚」をした女優の結婚について、出演者が「できちゃった…」と言いかけてから、さも放送禁止用語を発してしまったかのように口をつぐむ場面に遭遇して、非常に違和感を覚えました。

 

赤ちゃんができるのはおめでたいこと、生まれてくる赤ちゃんには何の責任もないことは言うまでもありませんが、なぜ「できちゃった婚」と呼ぶのを自粛しなければならないのかがわかりません。

 

そう呼ばれてたとえ不本意でも、それは自分の行動の代償なのだから仕方のないこと。

尤も、そんなコメントを気にするようなメンタルの持ち主は、芸能界では生きていけないのかもしれません。

 

 

 

それは「入籍」ではない!

 毎日のように聞かれる、芸能人の結婚報告。

それがニュースとして報道されるかされないかは、今回さほど問題ではありません。

気になるのは、彼らが会見の際「結婚」を報告する言葉として「入籍」を使う点です。

 

「結婚とは」「入籍とは」を論じる以前に、漢字の意味を考えれば「結婚」と「入籍」が違う意味であることは一目瞭然なのですが。

 

「入籍」とは、文字通り「籍に入る」「籍に入れる」行為のこと。

すでにある戸籍に、誰かを入れる場合は「入籍」になります。

夫婦に子供が生まれ、それまで夫婦で構成されていた戸籍にその子供を入れる場合は「入籍」です。

 

しかし結婚の場合は、二人で新しい戸籍を「作る」わけであり、決してどこかの戸籍に「入る」わけではありません。

こんな言葉はないのでしょうが、いわば「創籍」です。

 

しかも、これも圧倒的に多いのが「入籍させていただきました」との言い方。

以前のコラムでも触れたように「~させていただく」とさえ言っておけば、へりくだった丁寧な表現になるだろうという考えから出てくる表現。

「謹んで~」の気持ちを出したいのはわからなくもありませんが、本来「~させていただく」は、相手の許可・承認に基づく行為の際使うものです。

結婚はあくまでも本人たち自身の意思表示ですから、会見をするなら普通に「結婚致しました」だけで十分でないか、と思います。

 

 

 

 

「最〇端の駅」探訪その3~最西端

鉄道マニアとして「北」「南」の次に訪れたのが、日本最西端の駅への旅です。

 

日本列島の形からして、「南北」は「いかにも端っこ!」という感じがしてドラマチックですが、「東西」はちょっと地味かもしれません。

しかし、実際の景色は逆でした。

 

JR線に限って言うと、最西端は佐世保駅です。

長崎県内第二の都市の中心駅ですから、駅前はそれなりに賑やかですが、「さいはて」のイメージはあまり感じられません。

実はここ佐世保から松浦鉄道西九州線というローカル鉄道が出ており、鉄道としての最西端は、この路線上にあります。

 

1時間ほど揺られて到着した駅、その名は「たびら平戸口」。

1日の乗降者数が100人ほどの寂しい駅ですが、やはりここにも「南北」の時と同様「日本最西端の駅」の碑が建っていました。

駅自体は田平町にあるのですが、すぐ向かいに位置し鉄道の通じていない平戸島への玄関口にあるため、この駅名になったとのこと。

 

せっかくここまで来たのだからと、さらにバスに乗って平戸大橋を渡り、対岸の平戸島まで足を伸ばしました。

市の中心部には、私の大好きなお城「平戸城」があるほか、その昔オランダやポルトガルとの貿易拠点だった名残の教会や史料博物館などもあって、小さいながら魅力的なスポットでした。

 

帰りはバスで佐世保に戻りました。

市内にも観光名所はあるのでしょうが、ここでどうしても見ておきたかったのが、弓張岳からの展望。

九十九島」という名前はご存知の方も多いと思いますが、文字通り点在する島々が一望できる展望台が、駅からバスで30分ほどのところにあります。

ここからの夕景が素晴らしいということで、タイミングを見計らってバスで坂を上って現場へ。

幸い好天にも恵まれて、評判の日没風景に遭遇することが出来ました。

自分の語彙が乏しいのがなんとももどかしいですが、ただただ「美しい」の言葉しか出てこない、それは素晴らしい光景。

生涯で見た最も美しい日没の風景であることだけは間違いありません。

 

 

 

「童謡」ソロコンサート 

 

私の作曲は主にJ-POPと呼ばれるジャンルが中心ですが、歌作りのパートナー、つまり作詞者によって、演歌・歌謡曲系になったり、唱歌風になったり、はたまた子供のための歌、「童謡」も作ったりします。

 

以前、創作童謡コンクールに入選して鳥取を旅したことに触れましたが、今日は純粋なコンサートステージのお話。

ある作詞家の方が、地元のホールを借り切って自分の作品の発表会を行いたいということで、作曲者および歌い手としてそのコンサートに出演したのです。

 

コンサートはトータルで2時間ほどだったのですが、そのうち30分程度が私の持ち時間でした。

その間は観客数百人を前にしてのソロコンサート状態になります。

主催者たるパートナーからは、歌う曲として共に作った曲の指定があるだけで、内容はお任せします、とのこと。

歌のBGMは自作の音源を流すとして、人前で歌うこと自体は過去のステージ経験でまぁまぁ慣れているからよいのですが、問題はその構成。

 

依頼された8曲全部歌っても、演奏時間は20分弱。

司会者も特に立てられていないので、その間はMC、つまりおしゃべりで埋めなければなりません。

これまではオーケストラの一員として無言で演奏するだけでしたし、歌のコンクールにしても決められた進行に乗っていればよかったので、この「間持たせ」ははじめての経験となりました。

 

観客には若干の歌作り仲間も駆けつけてきてくれたものの、大多数は知らない人ばかり。

ここに出演する経緯や自分のプロフィール、はたまた長身にまつわるエピソードなど、場をしらけさせないよう、ネタを考えてしゃべりました。

ある意味歌そのものよりも神経をつかったかもしれませんが、自分なりの「しゃべり」経験が役立ったところもあったかもしれません。

 

コンサートはおかげさまで盛会に終わり、終演後はロビーで観客との懇談。

当日用に準備したCDも50枚ほど販売、「本人がいるし、せっかくだから」と、なんとここでもサインを求められたりして、再びのにわかスター気分を味わうことも出来ました。

 

 

「最〇端の駅」探訪その2~最南端

このコラム、東西南北4回に分けて書いていきます。

先日の「その1」は最北端の稚内駅でしたが、今日は最南端。

 

それは、鹿児島県指宿枕崎線にある西大山駅

鹿児島中央駅から終点・枕崎駅まで約2時間半ほどの路線の途中にあります。

ホームに降り立つと、別名「薩摩富士」と呼ばれる開聞岳が正面に大きくそびえ、「日本最南端の駅」の碑が立っています。

 

本当は下車して散策することも考えたのですが、周囲には何もなさそうだし、いま乗っている列車をやり過ごすと大変なので(当時1日7~8本しかなかった)停車中にちょっとだけ降りてあわてて乗り直し、「最南端の終着駅」枕崎駅まで足を伸ばしました。

 

かつお漁で有名な港のあるこの街、地図も持たず気のおもむくままに海の方向に歩くと、いくつかのかつお節加工場があり、ダシのイイ香りが漂ってきます。

10分ほど歩いて「台場公園」に到着。

何もないただの広場ですが、目の前に港と魚市場、背後すぐに迫る山の風景が実に美しかったのを覚えています。

 

この時は鹿児島市内に戻る前に、途中「砂蒸し風呂」で有名な指宿で宿泊しました。

 

ここでは一応「鉄道の駅」を想定していて、モノレールやLRTも含めると、現在最南端の駅は沖縄県のモノレール「ゆいレール赤嶺駅ということになります。

沖縄はそれ以前に行っていますが、今度は「ゆいレール」にも乗ってみたいものです。

ソロアイドル史第6章~1976年デビュー組

この年は、これまでシリーズで触れて来たソロアイドルは生まれなかったと言ってもよい珍しい年でありました。

 

ちなみに、この年のレコード大賞最優秀新人賞は、「弟よ」「想い出ぼろぼろ」、ブランクを経て8年後に「六本木ララバイ」をヒットさせた内藤やす子でした。

(正確には前年1975年11月にデビュー)

25歳でのデビュー、年齢もさることながら、アイドルのイメージからは遠い存在でした。

 

ソロの枠を外して考えると、この年のアイドルと呼べるのは唯一ピンクレディーと言って良いでしょう。

当時珍しかったミリオンセールスを連発し、アイドルの範疇を超越して社会現象にもなった存在でありました。

デビューが7月と遅めだったことから、新人賞レースには間に合わなかった感もありますが、それでもデビュー曲「ペッパー警部」は大きなインパクトを与えた楽曲でした。

(のちにモーニング娘。もシングルとしてカバー)

一番の活躍期は翌1977年、「渚のシンドバッド」や「WANTED」、そして最大のヒット曲「UFO」が生まれました。

1978年の「サウスポー」までが全盛期、第3章で前述したキャンディーズが「微笑み返し」で解散した時期と重なります。

その後も「モンスター」「透明人間」などを発表しますが、その後1位が取れなくなり、洋楽のカバーや英語の歌詞でのシングルを出すもセールスにはつながらず、解散までわずか4年、真に活躍したのは2年ほど。

それでも現代に至るまで誰もが知る存在としてこれだけの足跡を残したのは、ただただスゴイとしか言いようがありません。

 

 

ステージ活動の原点

基本的に社交的な私は、仲間内の集まりでもおしゃべりの中心にいることが多いです。

(友人曰く、初めはちょっと見マジメでとっつきにくそうに思われるそうですが…)

仕事で関西に住んでいた期間もかなり長く、人付き合いやマスメディアの影響などで「しゃべくり」もかなり鍛えられた感があります。

「しゃべったら、笑いをとってなんぼ」みたいな感覚もひそかに芽生えました。

 

そんなキャラクターなので、人前で緊張することはあまりなく、パフォーマンスには抵抗がありません。

そもそも人前に出る機会と言えば、自分の好きな音楽関係ばかりですから、なおさらそうなのかもしれません。

 

そんな私が初めてステージに立ったのは、バイオリンの発表会。

まだ5歳でしたから、緊張という感覚もなかったのでしょう。

当日どんな弾きっぷりだったかは覚えていませんが、みんなが見に来てくれるところに出ていくのが楽しみだった記憶だけはあります。

発表会参加はその後も多くあります。

 

人前でのパフォーマンスとして明確に記憶が残っているのは、中学校でのDJ(?)活動です。

部活で「放送部」に所属していた私、当時学校では昼休みでの全校放送と下校時のアナウンスを任されていました。

昼休みのうち15分ほど、(事前に教師の許可の上で)好きな音楽を流していたのですが、各教室につながるマイクの前で自由にしゃべることもありました。

そこで、単に曲目紹介だけでなく、その日にあった出来事や友人との話の内容をはさんだりもできたのです。

いま思えば、かなり自由な校風だったなぁ…

 

下校の際は「皆さん、下校の時刻になりました。気を付けて帰りましょう」を生でアナウンスしていました。

決まった原稿だけではつまらないので、毎回何かひと言付け加えることを自分なりの習慣にしていました。

 

そんな経験が、社会に出てからのプレゼンやディスカッションの場に、多少は役立っているでしょうか…

 

 

 

 

「ネットの声」って…

あのウィンドウズ95登場後、ほんの20年ほどの間に、もはやネットなしの生活はありえないほど、私たちの日常は大きく様変わりしています。

 

もちろん、時代とともに便利になったものは数知れません。

一方で、便利さゆえの弊害も多く生まれているような気がします。

 

ひと言で言ってしまえば、「ネット普及=情報氾濫」。

情報と一口で言っても良いもの、正しいものばかりとは限らず、むしろ弊害を及ぼす場面もあります。


イヤでも目に入ってくるネットニュースの数々。

根拠のない、あるいは悪意のこもったウソのニュース、不毛なコメント論争、炎上現象にいつの間にか振り回されている、そんなことを思ったりもします。

気にしなくても良いのに、それらに振り回されて貴重な時間をついつい奪われてしまい、後悔したりして。

 

そんな情報の発信元としてよく聞かれるのが、「ネットの声では…」という表現。

つい数年前には、このような言い方はされていなかったと思います。

 

ネットが普及する前だって、大衆にはさまざまな事象に対して抱く意見があったはず。

それがまとまったものとして一般的にオープンになる機会が少なかっただけです。

 

この「ネットの声」、すなわちネットニュースやSNSに書き込まれるコメントは、たいてい匿名。

であるがゆえに、無責任とも言える一方、ある意味偽らざるホンネが引き出せている部分もあるのかもしれません。

ただ、それが良い情報なのか、自分にとって真に意味のある情報なのか…

吟味しないと暮らしていけない時代になった、ってことなんでしょうね。

「最〇端の駅」探訪その1~最北端

私の旅のいちばんの「お供」は鉄道です。

昨日のコラムで触れたように、海外へもそこそこ出かけてはいますが、どちらかと言うと仕事がらみの方が多く、心から旅を楽しめたという印象はあまり多くありません。

そもそも飛行機がダメなのです。

何回・何十回乗っても、離陸時・着陸時には鼓動が倍増します。

また、電車のように1分前にホームに駆け込めばOKということがなく、何時間前も空港到着、手荷物検査、(国際線なら)出入国審査や税関検査など、とにかく厄介で。

 

乗り鉄として、すべての鉄道を乗り尽くすのは難しいとしても、「端っこ」を押さえることはなんとか出来そうだと考えます。

東西南北、「最北端」「最南端」「最東端」「最西端」の駅に行く…。

実はこれも、10年前に達成しています。

 

「最北端」は、どなたにもわかりやすく北海道・稚内駅。

ここに行けたのはややラッキーな面もありました。

はるばる稚内まで出向くには時間もお金もかかるのですが、ある年、9月の3連休前の木曜・金曜に札幌への出張があり、仕事ですからそこまでの往復費用は当然タダなので、そのあと土・日・月の連休を使って、稚内まで行ってみようと思い立ったのです。

 

札幌から特急「宗谷」に乗り、5時間以上。

旭川を過ぎると「街」らしい風景は消え、ずっと森の中。

稚内に着く2つ前、「抜海」という駅(おそらく無人駅)あたりで急に海が開け、グッと息をのむ光景が広がります。

駅には「最北端の駅」の碑が。

文字通り線路も行き止まりになっていて、それだけで「はるばるやって来た」感を強く感じさせます。

 

せっかくなので、駅だけではなく「日本最北端の地」も訪ねてみようと思い、稚内駅からバスで約40分、宗谷岬まで足を伸ばしました。

岬の突端には有名な「日本最北端の碑」があり、すぐ近くの小高い丘には、国内外さまざまな場所の方向と距離を示すポールが建っています。

 

もちろん目の前にはサハリンを遠くに望む海が開けているのですが、周辺にはこれといったビューポイントはありませんでした。

いったん駅まで戻り、もうひとつ有名な岬「ノシャップ岬」にもバスで行ってみました。

こちらは展望台も整備され、ちょうど訪れたのが夕刻だったこともあって、海に沈む夕日の風景に大感動した記憶があります。

(つづく)

 

 

旅へのこだわり

短時間でも「非日常」を味わわせてくれる「旅」は、人生の良きスパイス。

生まれてこのかた、何回旅をしたか数えきれませんが、仕事がらみ・プライベート含め、かなりあちこちに出かけています。

 

私なりの旅へのこだわりは、大きく3つあります。

 

ひとつ、「ひとり旅」がかなり好きなこと。

もちろん、新婚旅行を含め家族との旅、友人との旅も多く経験してはいますが、行く場所もそこでの行動も一切自由なひとり旅を、仕事の合間をぬってけっこう行なっています。

 

ふたつ、「鉄道旅行」。

とにかく「鉄道に乗ること」が理屈抜きに好きです。

俗に言う「乗り鉄」。

その鉄道に乗ることを目的にして、旅の行き先が決まることがよくあります。

路線そのものももちろんですが、それぞれに特徴ある「駅舎」が大好きです。

建物や行きかう人々の姿に「ドラマ」を感じるのです。

ですから、人気の観光スポットやご当地グルメなどは二の次だったりします。

 

みっつ、「お城・博物館めぐり」。

乗り鉄」よりかなり優先度は落ちるのですが、出かけた先の近所にお城があれば、またその土地にまつわる民俗博物館や美術館などがあると、必ず立ち寄るようにしています。

 

ちなみに、昔は「ニッポン47都道府県全てを踏破する」が自分の大きな目標でしたが、15年ほど前島根県を最後にすでに達成。

おまけで、「47の都道府県庁所在地すべて」もチャレンジしていますが、「通過だけでなくきちんと降り立つ」という意味ではすでにクリアしています。

「きちんと駅で降りて歩く」点では、前橋市山口市が未達成ですが、その気になればなんとかなりそうです。

 

鉄道に関しては、正確な路線図を塗りつぶしたわけではありませんが、国内の鉄道網のざっと7割くらいは乗り尽くしていると思っています。

もちろん、生きているうちに全部達成するのは大きな夢ですが、すでに乗った路線で「どうしてももう一度」と感じる印象深いものもたくさんあって、優先順位をつけるのが悩ましいところです。

 

海外で行ったことのある場所は、多いのか少ないのかわかりませんが、

プライベートでは、アメリカ(サンフランシスコ・ロサンゼルス・ラスベガス・ハワイ)、イタリア(ローマ・ベネチア)、フランス(パリ)、シンガポール、韓国(ソウル)。

仕事では、韓国(ソウル)、台湾(台北)、中国(北京・上海・瀋陽・香港・深圳)、ベトナムハノイ)、フィリピン(マニラ)、インドネシアジャカルタ)、シンガポールアメリカ(ニューヨーク、シカゴ、インディアナポリス)です。

 

これから、思い出深い旅の数々について、順不同でお話ししていきたいと思います。

 

 

 

「星座占い」ランキング?

民放朝のTVニュース(情報)番組、構成はどの局も似たり寄ったりですが、プチコーナーとして、ちょっとしたゲームやプレゼントの当たるクイズなどがはさまれることがあります。

そして、番組エンディング前に「星座占い」が設けられるのも珍しくありません。

 

お出かけ前にちょっとした運だめしを、くらいの「軽い」企画なのでしょう。

個人的に占いの類は信用しない、おみくじさえ引かないタチなので余計にそう思うのかもしれませんが、「どうやったら」「何を根拠に」星座ごとにあのような運勢やラッキーカラー・ラッキーナンバーが導き出されるのか、まったくわかりません。

 

ここで言いたいのは、占いそのものの信憑性もさることながら、なぜ12星座に運勢の良い悪いの「順位」が出るのか、という点です。

仮に順位があったとして、なぜそれを朝の出勤時に発表するのか、疑問でなりません。

 

1位や上位になれば「よし、今日もイイことありそうだ!」となるのかもしれません。

一方で、朝出かける前早々から「今日最も悪い運勢の方は、ごめんなさい、〇〇座です」と言われて、良い気分になる人はいるものなのでしょうか?

「悪くてもがんばるぞ~!」と発奮を促されるのでしょうか?

「ごめんなさい」と謝るくらいだったら、最初から言わなければいいのに。

さらに気に入らないのは、「でも大丈夫」とラッキーアイテムが紹介されるが、それが自分とは無縁のものだったりして、まったくフォローになっていない…。

 

たかがテレビ、悪い運勢と言われたからと言って、日常生活に影響があるわけではないのですが、気持ちとして快くはないと感じ、ちょっとボヤいてみました。

ウチの「ヨメさん」とは誰?

既婚男性は、自分の配偶者のことを紹介する時、どのように呼んでいるでしょうか?

もちろんTPOによって変わりますが、一般的なのは「妻」「女房」「家内」「奥さん」「カミさん」「ウチのヤツ」など。

最近は「家内」にいない奥さんも多いですけどね。

 

 

そんな中、「嫁」と呼ぶ人たちを時々耳にします。

「ウチのヨメさんがねぇ…」

詳しくはわかりませんが、比較的関西で多く聞かれるような気がします。

と言いつつ、配偶者の呼び方No.1とのアンケート結果もあるようです。

 

「嫁」とは、辞書に忠実に解釈すれば「息子の妻」、つまり「義理の娘」に当たる呼称であり、配偶者に対して使う言葉としては正しくありません。

またフォーマルな場で使うのもちょっとはばかられる表現です。

 

では、改まった場だからと丁寧な表現にしようとすると、敬語の謙譲語と尊敬語の混同に似た現象が生じます。

「奥さん(さま)」は相手の妻に対して使う言葉であり、相手の配偶者を「あなたの奥さん」と呼ぶのは正しくても、「ボクの奥さん」と呼ぶのはおかしいことになります。

 

女性にとっても同様に、配偶者の呼び方として「夫」「主人」「旦那」「亭主」などさまざまなものがありますね。

それぞれに使い分ける状況がありそうです。

 

自分の配偶者の場合は「私の夫」「私の妻」、相手の配偶者の場合は「あなたの旦那様」「おたくのご主人」がいちばん無難なのでしょうか。

「主人」は、上下関係を連想させる言葉として最近敬遠されるようになってきたとの話もあり難しいところですが、相手の夫なので「ご主人様」でもいいのかもしれません。

 

 

ソロアイドル史第5章~1975年デビュー組

1975年も女性アイドルが主流でした。

 

この年デビューでトップの実績を上げたのは、何と言っても岩崎宏美でしょう。

 

私の発見した法則(?)で「デビュー曲そこそこヒット、2曲目3曲目大ヒットだと大物になる」というのがあります。

すでに挙げましたが、天地真理のデビュー曲は「水色の恋」。

知ってる人は知っていますが、彼女を全国区にしたのは3曲目の「ひとりじゃないの」。

桜田淳子のデビュー曲は「天使も夢見る」で、正直大ヒットではなかった。

3曲目の「わたしの青い鳥」でヒット。

山口百恵も、デビュー曲「としごろ」より2曲目「青い果実」が圧倒的にヒット。

また、後日触れますが、1980年松田聖子のデビュー曲「裸足の季節」はトップテン入りせず、2曲目の「青い珊瑚礁」で大ヒット、3曲目「風は秋色」で初のオリコン1位を獲得しています。

同じく中森明菜も、デビュー曲「スローモーション」はファンならばよく知っているでしょうが、広く有名になったのは2曲目の「少女A」。

小泉今日子も、デビュー曲「私の16歳」を知る人は少ないでしょう。

2曲目の「素敵なラブリーボーイ」(林寛子のカバー)でメジャーになりました。

 

岩崎宏美も同様で、デビュー曲「二重唱(デュエット)」もまあまあ売れましたが、2曲目「あなたお願いよ 席を立たないで~」で始まる「ロマンス」が初期の代表作となりました。


彼女は「中3トリオ」と同い年であり、一応アイドルという位置づけでしたが、当初からアイドルらしい可愛らしさより本物の歌唱力で勝負できる存在だったと感じています。

同期には「2時間ドラマの女王」片平なぎさがいます。
前年デビューの浅野ゆう子とともに、今では完全に女優のイメージが強い彼女ですが、バラード曲「純愛」でデビューし、その後10枚ほどのシングルを発表しています。

 

この年最もアイドルらしかったのは、岡田奈々でしょうか。

デビュー曲は「ひとりごと」ですが、現在記憶に残っているのは4枚目の「青春の坂道」や続く「若い季節」です。


以下はあまり知られていない話。

この年三木聖子もデビューしています。

彼女のデビュー曲は、あの「まちぶせ」。

そう、6年後の1981年、当時「がけっぷち」(後述)だった石川ひとみが歌ってヒット(作者のユーミンもセルフカバー)したあの曲です。

大事なデビュー曲を別の人に取られ、「聖子」の名前も後にデビューする松田聖子に取られ、個人的には悲運のアイドルです。

 

知名度はもっと低いかもしれませんが、黒木真由美もこの年のデビューです。

あの「スター誕生」で発掘され、当時インディアン人形のようなルックスと髪型が話題となり、オーディション時の注目度は同期の岩崎宏美よりはるかに高いものでした。

阿久悠・都倉俊一のゴールデンコンビによる「好奇心」でデビューしますがあまりヒットはせず、残念ながら発表されたシングルは5枚、その後3人組のユニット「ギャル」のメンバーとなりますが、ここでも大きなヒットには恵まれませんでした。