さえわたる 音楽・エンタメ日記

オリジナル作品紹介、歌の解説、ヴァイオリン演奏、言葉の使い方、エンタメニュース、旅行記などについて綴っています

ソロアイドル史第11章~1981年デビュー組

前回(先週)の連載でも触れたように、音楽界、アイドル界を語る時に「80年代」はまさに黄金期。

特に1980年と、次回述べる1982年がその「当たり年」とされている中、1981年はその「狭間」的な年でした。

 

より正しくは、マッチこと近藤真彦のひとり勝ち状態だったと言えるでしょう。

すでに「3年B組金八先生」でドラマデビューし、ジャニーズの一員としての人気・知名度を得ており、田原俊彦に続き満を持しての歌手デビュー。

その前評判に違わず、デビュー曲「スニーカーぶるーす」は大ヒットします。

(発売日は1980年12月なのですが、当時は「賞レース」にまだ権威のあった時代、太田裕美渡辺真知子などと同様、翌年のデビューと見なされています)

デビュー曲も十分な大ヒットなのですが、一番の代表作と称されるのは、4枚目のシングルである「ギンギラギンにさりげなく」の方かもしれません。

 

ほかに、当時「竹の子族」の一員として話題を呼んだ沖田浩之が「E気持」で、さらにひかる一平が「青空オンリー・ユー」、竹本孝之が「てれてZinzin」、堤大二郎が「燃えてパッション」でアイドルデビューしています。

演歌勢では、「函館本線」がヒットした山川豊、「倖せなみだ色」でデビューし、5年後の1986年「無錫旅情」で紅白にも出場した尾形大作が同期です。

 

女性では、同じく「金八先生」出身、この年「少女人形」でデビューした伊藤つかさや、アイドルポップスソングとして最高音が含まれる(超トリビア?)楽曲「ちょっと春風」(松田聖子の「裸足の季節」「青い珊瑚礁」「風は秋色」と同じ作家陣)でデビューした沢田富美子などが挙げられますが、80年のように新人賞が熾烈な争いを見せる山場には乏しい展開でした。

 

ちなみに、「センチメンタル・ジャーニー」で知られる松本伊代も1981年のデビューですが、年末に近いデビューだったため、上記と同様の理由で「花の82年組」のひとりに組み込まれています。

 

珍しく男性歌手デビューが目立つ年でありました。

「100日連続」に到達。でもまだまだ。

本日、ブログ開設後のひとつの目標にしていた「100日連続更新」に到達しました。

 

せっかく始めたからには、不特定多数の方に読んでいただくことを念頭に置き、相応の意識をもって、ひとつひとつの記事を丁寧に書くことを心掛けてきたつもりです。

でも、言うまでもなく、開設したら「ゼッタイ連続で更新」しなければならない、というものではありません。

あくまで自分次第。

「連続で書かなければ!」に縛られてそれがストレスになったら、書くのが楽しくて始めたブログのはずなのに、それこそ本末転倒ですよね?

 

ただ、自己満足の「連続更新記録」を優先するあまり、充分ネタを吟味することもせず、質の悪い・内容の乏しいコラムを載せるのは、いささかマナー違反。

そう思って、そこは神経を研ぎ澄ませて真剣に取り組もうと常々思っています。

 

何事もある程度継続していると、その先に何かが見えてくる…

ブログにも、何かしら同じことが言えるのかもしれません。

開設1か月の時も書きましたが、テーマを定める・ネタを探すために、世の中の動きに対して、明らかにこれまで以上に敏感に反応するようになりました。

また、カテゴリー作成を通じて、「自分は本当に何が好きなのか」果ては「何をよりどころにして生きてきたのか、そしてこれから生きていくのか」まで思いを巡らせるようにもなりました。

 

私は、「アクセスして下さった読者の方がパッと読み終えられるには、原稿用紙2枚(800~1000字)程度が適切だろう」(=あまりスクロールしなくても読める)と都合よく考えて、毎日そのくらいにまとめていますが、私の何倍もの日々にわたって連続更新し、しかも量・質共にはるかに充実した記事を書かれる方々を見かけると、「掲載するために一日のうちどれだけの時間が費やされているだろう?」と、ただただ感服するばかりです。

 

100日などまだまだ。

アクセス数もスターも全然まだまだです。

これからもずっとこんな状態のような気もします。

たくさんの読者を持ち、1つのコラムであっという間に何百ものスターを獲得するブロガーさんを発見すると、どうしたらあんな風になれるのか、と心底思ってしまいます。

 

自分のコラムは、話題選びが良くないのか?

文章力がないのか?

時々動画を入れてはいるけれど、人をひきつけるビジュアルが不十分なのか?

そもそも、記事を発信するノウハウ(あちこちリンク?)が足りないのか?

ずーっとアクセスがないと、時々心が折れそうにもなります。

 

でも、人のことを気にしても仕方ありません。

マイペースに地道に「書き続ける」しか方法はないのでしょう。

ひとつでもアクセスがある限りそれを励みにして、「無理をせず」これからも好きなことを書き続けていきます。

 

いつもご愛読、本当にありがとうございます。

 

 

 

全都道府県旅行記~山形県

山形県は、行くには行っていますが、47都道府県の中では比較的記憶の乏しい場所であります。

前回青森~秋田の列車旅をご紹介した際、行きの夜行列車中では明らかに山形県を通ってはいるのですが、そのほとんどは就寝中であり、その時の印象はありません。

 

訪問はこれまでに2回。

1回は山形市内への出張で、仙台行きとかけもちの慌ただしい滞在だったので、空き時間を期待してのプチ観光もまったく楽しむ余地のない寂しいものでした。

 

しかし、小学生の時に家族で経験したもう1回の観光は、今でもその光景が強く思い出される旅行でした。

その場所は、山形市内からほど近い「山寺」。

 

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の名句を詠んだ芭蕉の句が有名なこの場所。

調べると、1000年以上前慈覚大師によって創建された名刹で、正式名は立石寺だろうです。

印象深かったのは、どこまでも続く長い長い石段(1015段あるとか)。

子ども心に上るのがものすごくキツかった記憶がありますが、上り切ってから眺める絶景は、まさに苦労の「ご褒美」。

その途中にも芭蕉の句が刻まれているせみ塚があったりして、厳粛な雰囲気を感じさせても素晴らしいです。

 

この時は近所の天童市にも立ち寄り、名物のさくらんぼ摘み放題でイヤと言うほど食べまくったのも良い思い出です。

 

鉄道好き・海好きとしては、今度は日本海側の酒田・鶴岡エリアを攻略してみたいと目論んでいます。

本当にやめて欲しい「歩きスマホ」

今さら言うまでもなく、スマホは現代人の生活にもはやなくてはならない存在となっています。

スマホで出来ることは増えるばかり。

スマホでしか出来ないことも、今後どんどん増えていくことでしょう。

そんな時代が逆戻りすることはもはやありません。

 

間違いなく、スマホは便利なものです。

私自身もその恩恵に預かる一人であります。

ですから、スマホ自体を否定するなどという非現実的なことは考えていません。

 

ここで言いたいのは、多くの人がスマホを持ったとたん、「人に迷惑をかけてはいけない」という社会生活の一番基本的なルールを忘れてしまう点です。

 

そう、屋外でのスマホの扱い。

特に「歩きスマホ」。

 

いまや、電車で座って目を開けている人の9割以上はスマホをいじっている現状。

座席でスマホを見ようと何をやろうと勝手です。

カップルや複数の仲間同士一緒にいるのに、直接の会話を楽しまずにそれぞれがスマホを眺めている光景を見ると、心が貧しいなぁとは感じますが、それは本人たちの好みですからどうこう言う筋合いではありません。

それで直接他人に迷惑をかけているわけではありませんから、構わないと言えば構わない。

画面に夢中になり過ぎて、あとで目や身体の調子が悪くなっても、はたまた寝不足になっても、それは自業自得の世界です。

 

ただ、混雑した歩道や駅のホーム・通路での堂々とした「歩きスマホ」は、マナー違反のレベルを超えた大迷惑行為以外のナニモノでもありません。

当然、目はスマホ画面にくぎ付け。

周りをまったく見ようとしていません。

自分の歩行経路こそが絶対優先で、すれ違う人は自分を避けて通ってくれるのが当たり前と思い込んでいる。

そうでなければ、「歩きスマホ」など出来るはずもありません。

スマホが普及する以前(ガラケー主体だった頃まで)、これほど表立って非常識な行動をする人間は多くなかったと思います。

 

人にぶつかってケガをさせたら、どうするつもりなのでしょう?

ポスターや広告ではまったく効果がないほど、世の人のマナーは地に落ちています。

何らかの「お仕置き」を設けることが出来ないものか、真剣に思っています。

と同時に、スマホばかりに大切な時間を費やすのが果たして本当に有意義なのか、幸せなのか、そう自問自答したりもします。

  

モノマネ受難時代

漫才やコントと一緒にして良いのかよくわかりませんが、お笑いの枠の中で「モノマネ」はひとつのカテゴリーとして存在し続けています。

今ではほとんど聞かれることがなくなりましたが、かつては「声帯模写」といって、人の声や動物の鳴き声を誇張なく真似ることが寄席の一芸とされる時代もありました。

 

今のモノマネは、文字通り本人の形態を忠実に再現するものが基本にはなっていますが、その特徴をデフォルメして笑いをとることの方が優先しているようです。

「似ている度」より「面白度」が求められている気がします。

 

ひとつの芸としては、面白ければそれはそれで良いと思います。

ただ、時代の変化による個人の趣味・価値観の多様化・分散化に伴って、モノマネのターゲットになる「誰もが知る、かつ特徴のある芸能人」が少なくなっているように感じます。

80年代から90年代にかけてコロッケ・栗田寛一・ビジーフォーモト冬樹グッチ裕三)・清水アキラが「モノマネ四天王」として人気を博し、その後も原口あきまさ・神無月・ホリ・福田彩乃など優れたモノマネ芸人が続々と登場しています。

歌マネや喋り方において「ある特定の一人に非常に似ている」という点では、ほかにもたくさんの芸人がいますが、それは「モノマネ」というより「ソックリさん」に近い存在。

彼らの中で、その「似ている度」や持ちネタの幅広さにおいて、モノマネ界のトップタレントはコロッケではないかと思っています。

 

モノマネの時に使われる一番のフレーズと言えば、何と言っても「こんばんは。森進一です」のひと言に尽きるでしょうが、誰もが知るタレントを忠実に再現するだけでなく、厳密には声は似ていないけれど、特徴を大げさに表現することで(時にはその格好だけで)、本人が怒る(?)ほどの笑いをとる、それが彼の芸の真骨頂ではないかと思っています。

 

今回代表的に彼の名を挙げましたが、第一人者であるコロッケでさえも、今の時代ネタを開発し人気を持続する難しさを痛感しているのではないかと感じます。

同じことをずっとやっていると飽きられる面ももちろんありますが、それよりも「ターゲット」探しの方が大変ではないか、と。

いくら似せても、その「本人」が万人に知られている存在でなければ、どれほど似ていても共感や笑いは起きない。


特徴ある芸能人の減少…モノマネ受難時代を感じさせます。

 

 

 

アメリカ人はみんな感動屋?

日常的にTVをつけていると、否応なくCMと「ご対面」することになります。

見ていて楽しいモノもあり(また民放の経営上不可欠なものでもありますから)、「CMのないNHKしか見ない」なんてことは全くなく、以前もこのコラムで触れたように、けっこう興味を持って見ている、と言った方がよいかもしれません。

 

その中で、洋画上映をアピールするCMの常套句として非常によく使われていると感じるのが、「全米が泣いた」の表現。

 

「多くの人が感涙にむせぶほど素晴らしい!」

そう訴えたいことは、当然わかります。

 

では、それをひとくくりにして「全米が」としてしまってOKなのか。

特に最近画面によく登場する「言い訳CM」との境界線はどこにあるのか?との疑問も湧いてきます。

 

CGを駆使した画面表現の片隅によく表示される「CM上の演出です」の小さな文字。

詳しくは知りませんが、あの「断り書き」を入れないと、業界のルールに違反するのでしょうか?

個人的には、どんな些細なことにもクレームを入れてくる消費者(視聴者)への対応の一環なのだ、そう思っていますが…。

健康食品や化粧品などに登場する「個人の感想(見解)です」の断り書きも、おそらく同様の発想でしょう。

(この場合は、業界で定められたルールがあるのかもしれません)

 

すべてのアメリカ人はみな「感動屋さん」で、みんな同じ感性を持ち、等しく感動することなどあるのか?

アメリカ人個人の感想です」とすべきところではないのか?なんて…

 

ちょっと気になったので、ヘリクツで書いてみました。

 

 

 

カラオケへの「こだわり」

カラオケブームは沈静化したと言われつつ、都心部はもちろん郊外の駅前にも必ず2つ3つのお店がちゃんと営業している…

それだけで、いまだに根強い需要があることがわかります。

 

私自身も、カラオケ屋さんマーケットの維持・拡大に貢献している一人です。

頻度としては平均して月に1回程度ですが、いったんのめり込むと「深い」のが特徴です。

 

「カラオケ仲間」がいくつかあって、それぞれメンバーが異なるのですが、どのグループでもしょっちゅう集まっていると、結果として同じレパートリーを披露するようになりがちです。

そこは「自称音楽愛好家」(?)のプライドが許さない!

そこで、「同じメンバーの前では同じ歌は歌わない」をモットーにしているのです。

誰に言われたわけでもない自分だけの勝手なこだわりですが、「あぁ、アイツまた〇〇のウタ歌ってるよ…」と思われるのが不本意なので…。

これって、実行してみるとけっこうハードルが高いことがわかりますが、これによって世の中の数々の歌を研究し、メンバーの年齢構成から好んでもらえそうな年代の曲を都度ピックアップします。

こうしたリサーチによって、当時あまりヒットには恵まれなかった名曲や、古き良き時代の懐メロの中から、自分が歌えそうな歌を探し出す喜びも味わえるのです。

 

また、カラオケの一般的なパターンは、集まってワイワイ騒いだあと二次会としてなだれ込むのがメインでしょう。

しかし、私としてはカラオケを「イベントのオマケ」ではなく「メインディッシュ」として楽しみたいと思っているのです。

 

どこの世界にも「同好者」はいるもので、同じ趣味を持つ仲間がいます。

土曜日の午前中、東京人ではないその人は、新幹線で東京駅にやってきます。

本当ならお茶かランチを、となるところですが、会うなりカラオケボックスに直行し、そこでランチとしてフードメニューを注文するのです。

カラオケボックスと侮るなかれ、最近はどこのお店も食事からドリンク、スイーツ・スナック菓子に至るまでそこそこメニューが充実していて、まったく不満はありません。

そして、夜までの「フリータイム」(持ち時間約6時間)、とにかく歌いまくるのです。

 

ノドに良くないので、歌う時にアルコールは口にしたくありません。

(飲み会の二次会のカラオケが好きになれない大きな理由のひとつ)

たっぷり歌い終わってから移動して、心置きなく飲みながら食事。

次の日、日曜日は朝食後、せっかく東京に来たのだからと、いろいろなスポットを半日かけて案内。

昼食後は前日と同じパターンで5~6時間歌いまくり、夜7時過ぎに帰りの新幹線を見送ります。

 

もちろんそのほかに、自宅では自作の曲のレコーディングも定期的に行っているので、「歌う」という行為に対してある意味異常な接し方とも言えますが、トシをとって声が出なくならないうちは、音域がキープ出来ているうちは、「歌えることの喜び」を満喫したいと考えている私です。

ソロアイドル史第10章~1980年デビュー組

当カテゴリーでのこの連載、今日で10回目となりましたが、個人的に最も盛り上がりがあり、印象深かったのが、この1980年という年です。

 

平成・令和を生きる方々にはなじみが薄いかもしれませんが、昭和に生まれた者、特に音楽に親しむ者にとって「80年代」の言葉は一種の固有名詞ともなっています。

 

1980年10月5日(日曜日)、70年代に誕生したトップアイドルと呼んで過言ではない山口百恵のラストコンサートが行われました。

1か月半後に三浦友和との結婚を控え、ウエディングドレスをイメージさせる純白のドレスを身にまとって、自身31枚目、実質上のラストシングルとなった「さよならの向こう側」を歌い終えた後、白いマイクをステージ上にそっと置いて立ち去る姿は、伝説のパフォーマンスとして当時話題となりました。

 

同じ年、遡ること6か月ほど前にデビューしたのが、当時18歳だった松田聖子です。

アイドルとしてのイメージも楽曲のスタイルもまったく異なりましたが、同じ年にかたや引退、かたやデビュー。

「アイドル界を代表する存在」としてのバトンが百恵から聖子に受け渡された…そんな節目の年であったと感じます。

ちなみに、二人の年齢差はわずか3歳というのが信じられません。

 

松田聖子については、デビューから1985年まで5年間の「純粋な」アイドル時代、結婚・出産を経ての再スタートを通じてさらに生み出された個々のヒット曲を語り始めるとキリがありません。

3枚目の「風は秋色」から1988年、26枚目の「旅立ちはフリージア」まで24作連続オリコン1位獲得は、当時の新記録でした。

彼女の代表曲を一般の人に問えば、「青い珊瑚礁」や「赤いスイートピー」「Sweet Memories」あたりが出てきそうですが、純粋なセールス枚数で見てみると、そこからさらに8年後の1996年に再び1位を獲得した「あなたに逢いたくて~Missing you」が、誰でもが口ずさんだ初期の数々の楽曲を抑えてトップというのも、ちょっと意外な事実です。

2016年には「薔薇のように咲いて 桜のように散って」をリリース。

デビューから36年も経って発売したシングルですが、それでも初登場6位を果たしています。

途中若干のブランクをはさみながら、現在も「紅白」には出場中。

アンケートをとれば「好きな歌手」「嫌いな歌手」双方に名前が登場してきそうですが、逆にそれこそが「知名度」の証でもあります。

聖子については、第12章(1982年デビュー組)で取り上げる予定の中森明菜を語る際「聖子派・明菜派」で再び触れることになりそうですが、現在の「AKB・坂道」に至るまで「アイドル」の用語が使用され続けている中、セールス実績・第一線での活躍期間の長さ(現役感)・年代性別を超えた認知度・トーク&バラエティーセンス・世間に与えたインパクト等において、今後彼女以上の存在感を放つアイドルは現れないであろうと思っています。

 

ところが、この年レコード大賞最優秀新人賞を獲得したのは、聖子ではなく田原俊彦でありました。

「たのきん」の一人として、第11章で登場する近藤真彦、第13章の野村義男とともに一世を風靡した田原。

アイドル歌手としてのヒットは多数あり、今もゴールデンタイムでのレギュラー番組はありますが、そのトークやコメント力に特段のセンスがあるわけではなく、58歳となった現在、現役感には乏しく、「往年のアイドル」「元アイドル」の呼び方が相応しい現状であります。

 

他の女性陣で代表的だったのは、河合奈保子岩崎良美柏原芳恵など。

 

河合奈保子は前年までにデビューしたアイドル像を最も純粋に踏襲した正統派アイドル。

デビューから1年ほどはあまりヒットに恵まれませんでしたが、翌年5作目の「スマイル・フォー・ミー」で知名度を上げました。

その後「けんかをやめて」「エスカレーション」などを経て、5年後「デビュー」(というタイトルのシングル)で最初で最後のオリコン初登場1位を獲得しています。

 

岩崎良美は、岩崎三姉妹の末っ子。

姉・宏美デビューの5年後「赤と黒」でデビューしました。

アイドルとしては遅めの18歳でのデビューだったこともあってか、楽曲は玄人受けするオトナっぽいモノが多かったと感じます。

代表作と呼べる「タッチ」がヒットしたのはデビューから5年経った1985年のことでした

 

柏原芳恵(デビュー時は柏原よしえ)は、14歳ながらやや大人っぽいイメージをセールスポイントとして、阿久悠・都倉俊一のゴールデンコンビによる楽曲「No.1」でデビューしましたが、1年半ほどは目覚ましい活躍には恵まれませんでした。

転機となったのが、翌1981年に発表された7枚目のシングル、「紅茶のおいしい喫茶店」の歌い出しで知られる「ハロー・グッバイ」。

一般的には彼女オリジナルのシングルと認知されていますが、かつてのアイドル・アグネスチャンのシングル曲のカバーだったのです。

そして、彼女を一躍有名にしたのは、1983年にリリースされた、中島みゆきの作詞・作曲による「春なのに」でしょう。

 

さらに、「動」と「静」の二面性のイメージを持っていた山口百恵の「動」=ツッパリイメージを継承してこの年「セクシー・ナイト」でデビューしたのが、いまや議員センセイとなった三原順子(現・三原じゅん子)でありました。

 

 

 

全都道府県旅行記~岩手県

岩手県は、先日来述べた北海道旅行の際、陸路移動すれば必ず通る県です。

ところが、プライベートでも出張でも「通る」だけで「降り立つ」機会にはなかなかない場所でした。

出張で岩手に何度か出かけて、その際盛岡が食事や宿泊の場所になることも多かったですが、仕事の延長でしたから「旅」と呼べるような感慨を覚えることはあまりありませんでした。

 

観光の意味合いで印象深かった場所は2つ。

ひとつは、子供のころ家族でクルマ旅行をした「小岩井農場」。

広大な面積の農場の一部が観光用のエリア「まきば園」として一般に開放されており、都会暮らしでは味わうことのできない一面に広がる緑の風景を満喫しながら、乗馬体験ができたり、馬車鉄道に乗ったりすることが出来ます。

本場で味わう牛乳や乳製品は、格別の味でした。

 

そして、より鮮明に思い出に残っているのが、高1の東北(岩手・宮城)修学旅行で訪れた平泉・中尊寺です。

まだ世界遺産に認定される前のことでしたが、歴史にそれほど造詣が深くない者にとっても、ガイドさんの説明を聞きながら回ると、かつての藤原氏の栄枯盛衰の名残を目の当たりにして、そこにある種のロマンが感じられるのでした。

特に金色堂に至る石段の風景は、今であれば絶好の撮影スポット。

時間に余裕が出来たら、ぜひ再訪してみたい場所のひとつです。

 

【懐かしい歌No.2】「Ti Amo」EXILE

2008年発売、オリコン初登場1位を獲得し、第50回レコード大賞にも輝いたこの曲。

2001年にEXILEの名前でデビューして以来、ZOOのカバー曲だった「Choo choo Train」や、初めてオリコン1位をとった「real world」などが初期のヒットとして知られていました。

 

無類のバラード好きの私としては、1stシングルである「Your eyes only=曖昧なぼくの輪郭~」や「ただ逢いたくて」「道」などのバラード作ももちろん好きなのですが、この「Ti Amo」は、絶妙にミディアムな16ビートと複雑なメロディーライン、そしてソロギターを際立たせ決して出しゃばらない気品あるバックのアレンジが見事にマッチした傑作だと思うのです。

カワイさを象徴するジャニーズ系に対し、「オトコ臭さ」の代名詞であるEXILE系の彼らが、あえて女性言葉の歌詞で、家庭ある男性を好きになってしまった切なさを歌いあげている点も、外せない印象的シーンです。

 

カラオケ画像で見ると、バックには当時のPV映像が流れ、そこにはメンバー増強や3代目JSB・Generationsといった、いわゆる「EXILE TRIBE」が誕生する前の少人数の「元祖・EXILE」の姿があり(ボーカルのひとり、Shunはすでにこの時TAKAHIROにチェンジはしているのですが…)、11年の歳月の流れを感じます。

 

演奏時間は6分近くとシングルにしては長く、2番のあとにはDメロまであって相対的に間奏が短く、また「息継ぎタイム」が短いこともあって、ひとりで1曲歌い切るにはけっこうなエネルギーが必要と思い知らされます。

オリジナルでは、ツインボーカルがそれらをうまく役割分担しているのかもしれません。

高度にミキシングされたCDでは、ほかの楽曲でも当たり前にあるように、サビにはハモリのバックコーラスが重なりますが、せっかくのツインボーカルならば、彼らのハモリももっとふんだんに聞かせて欲しい気もします。

 

ともあれ、私の「愛唱歌」のうちの貴重な1曲であります。

 


EXILE第2章 TiAmo 歌詞付

「最も〇〇な〇〇の一人」?

日常会話ではあまり使用されることがありませんが、TVや活字メディアにおいてけっこうな頻度で使われると感じるのが、タイトルに挙げたこの表現です。

 

たとえば、

「最も優れた研究者の一人」。

「最も美しい女優の一人」。

対象は人物に限りません。

「最も有名な観光地のひとつ」

「最も衝撃的な事件のひとつ」

のように使われたりもします。

 

「優れた」「有名な」といった形容詞の部分は何であってもかまわないのですが、通常「最上級」を示すはずの「最も」の言葉が付いたら、それは文字通り「ナンバーワン・オンリーワン」のことであって、これでは「最も〇〇なモノ」はいくつかあって、そのうちの一つである、ということになってしまいます。

文法的に違和感が残ります。

 

「ほかにも素晴らしい人や物事は数多く存在するけれど」という配慮、一種のオブラート的表現なのかもしれません。

 

しかし、純粋に言葉の意味を考えると、ブログ開設当初に取り上げた日本語の変化(個人的には「乱れ」)、

「会話における『とか』の多用・乱用」(「とか」なしにはしゃべれない人種の爆発的急増)

「『ら』抜きの定着」(見れない・食べれない・寝れない…)

に似た流れをふと感じてしまうのです。

 

「えええ~!」「すごぉ~い!」「そうなんだぁ!」

いきなり唐突なタイトルですが、これってみんなバラエティー番組1本の中にイヤというほど出てくるリアクションフレーズの数々です。

 

お店、グルメ、トリビア、名物的人物…題材は何でも一緒。

VTRでその情報を紹介するたび、スタジオに何人も出演するコメントゲストがワイプで抜かれ、大小色彩さまざまの字幕テロップと共に、この言葉が発せられます。

 

映像プラス「〇〇は〇〇だった!」「〇〇は〇〇で話題になっていた!」「〇〇の正体とはいったい?!」といったナレーションにかぶさる形で、

「あああ~!」

「えええ~?!」

「すごぉ~い!」

「そうなんだぁ!」

「そうなのぉ?」

「なるほど~!」

の連発。

 

あれには、コメントゲストやスタジオに招待された観客のナマの声だけでなく、別途収録された音声も重なっているのでしょう。

 

さして衝撃的とも思えない内容に、これでもかと大げさに「演出音」をかぶせて事を大きく見せる手法。

感動の「押し売り」は、嫌悪感を抱かせるばかりで、完全に逆効果と思うのですが。

私は特に収録済みの効果音の「えええ~!」の大声が大っ嫌いです。

 

前にも触れましたが、その直後には例外なく「山場CM」が挟み込まれる。

「山場」と書きましたが、本当に盛り上がっているのではなく、制作サイドでムリヤリ作り上げられた山場です。

CMが開けると、CM前の映像が繰り返される…これもお決まりのパターンです。

 

このあまりにもわざとらしい進行の仕方・演出法は、番組やチャンネル・時間帯を問いません。

TV業界で決められた横一線のルールなのでしょうか?

CMスポンサーの意向なのでしょうか?

広告代理店が決めているのでしょうか?

私は、そうまでして割り込まれたCMを流すスポンサーは、興味を抱くどころか逆にキライになります。

 

そういう「わざとらしさ」満載の演出でも、番組内容そのものが好きで見たいと思うバラエティー番組があります。

いずれも録画をした上、CM部分を全てカットしてから見ます。

そうすれば映像繰り返し部分も早送りできて時間も短縮、一石二鳥です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

超至近距離のライブハウスステージ

これまで触れて来たステージ記録は、オーケストラの大ホールであったり、狭いラジオ局ブースでも電波を通して全国とつながっていたり、「スケールの大きい」ものが多くありましたが、今回は最も小さなステージのお話です。

 

さる作詞家兼プロデューサーとの出会いで、その人の手がける歌手の卵たちのために何作かの曲作りを頼まれました。

彼女らのパフォーマンスの場として、都内のライブハウスでのコンサートが企画されたのですが、当初単なる観客として招待されるはずだった私が、作曲・編曲者としてゲスト出演し、なおかつそこで自作曲を披露するコーナーが設けられる運びとなったのです。

 

そのライブハウスは、いくつかのボックス席にカウンター、正面に小さなステージのあるジャズ喫茶風の作り。

主催者であるプロデューサーが司会役となり、出演者とのトークを交えながらライブを進めていきます。

 

私のコーナーは30分ほど。

彼らとの出会いのきっかけや楽曲制作の裏話などをはさみながら、前回のステージ同様自ら用意した音源をバックに4~5曲を歌いました。

 

一応ステージと客席は分かれているのですが、なにせ小さい普通のお店ですから、ステージとは言っても手を伸ばせば届いてしまうほどの超至近距離。

歌の合間には、司会進行役を無視(!)して、マイクを外し見知らぬ観客とフリートークをする。

ライブハウスならではの珍しい体験もすることが出来ました。

 

大勢に注目されるのもいいけれど、こうしたアットホームな場もまた楽しいものでした。

 

 

【番組紹介】「笑点」

「TVに思うこと」カテゴリーで、最近の番組(特にバラエティー)やCMに関して、どちらかと言うと批判的なコメントを並べてしまっていますが。根底には「TV好き」の気持ちがあります。

今は忙しくて、時間を確保するためにTVを見るのをガマンせざるを得ない状況がある。

でも、自由な時間ができたらTV三昧の時間に浸ってみたい。

だからこそ、TVには魅力的な存在であって欲しいのです。

そこで、現在見ている、あるいは過去放送されていて今も印象に残っている番組について、思いつくままに触れていきたいと思います。

 

まず第1回目は、「現役最長寿(?)」の「お笑い番組」(バラエティー枠とはもはや別格の気がする)、「笑点」です。

 

毎週日曜夕刻に放送されて、なんと50年以上。

放送回数2500回超え。

視聴率も、それ自体が話題になるほど毎回高い水準をキープしています。

日本国民であれば、見ていなくてもその存在を知らない人はおそらくいないであろう「オバケ番組」であります。

かつては40分番組で、最初の10分が漫才・コントなどの演芸、次の10分で対談、そして「大喜利」という3つのコーナーがありましたが、今は真ん中の10分がなくなり、「演芸」と「大喜利」の2本立てで構成されています。

 

初代司会は立川談志でしたが、2代目前田武彦の時代は短く、印象深かったのは70年代から10年以上司会を務めた3代目、三波伸介の時代でした。

4代目三遊亭圓楽、5代目桂歌丸の時代は視聴からしばらく遠ざかっていましたが、3年前に春風亭昇太が6代目に就任してから、再びレギュラー視聴者になりました。

それまでの司会者は(特に落語家だった時は)番組の「リーダー」「まとめ役」的存在でしたが、現在の春風亭昇太は、他の6名の出演者の中に小遊三・好楽・木久扇・円楽と年上が4名もおり、司会者でありながら彼らから(時にはたい平も含め)「いじられる」立ち位置にいるのが、個人的に興味深いポイントです。

 

演芸系番組と言うと、ファンは中高年ばかりかと思いきや(大喜利の際の笑い声を聴いていると、年長者が多い気もしますが)、観客席が映るオープニングの映像を見ていると、老若男女問わず観客から幅広い人気を得ていることがわかります。

 

スタジオにコメントゲストを並べての、特徴のないゴールデンタイムの各種バラエティー番組が林立する中、「大喜利」という独特のスタイルを50年以上維持している。

サザエさん」同様、TVという存在がある限り、終わりを迎えることはない番組のようにさえ感じます。

 

【懐かしい歌No.1】「朝日のあたる家」ちあきなおみ

 連載している「ソロアイドル史」も1970年代が終わり、次は80年代に入りますが、この「はやり歌とともに」カテゴリーでは、歌を歌い、歌を作り、歌を愛する私が心惹かれる歌の数々も同時に取り上げていきたいと思っています。

 

その第1回目は、今昔多数(自分が生まれる前に活躍していた歌手も多数含まれます)出会った中で最も素晴らしいと感じている歌手、ちあきなおみです。

 

1992年に芸能活動を休止して以来、表舞台から姿を消してしまっている彼女。

年代的にも、もはや彼女の存在自体を知らない人々の方が多いのかもしれません。

少し上の世代の方であれば、札幌オリンピックが開かれ、沖縄が本土復帰した1972年、まだ一般大衆の間で権威(?)のあったレコード大賞を(「瀬戸の花嫁」がとるだろうとの下馬評に反して)「喝采」で獲得した歌手、ぐらいの記憶はあるかと思います。

80年代に入ってから、コロッケがこの曲を形態模写して「面白おかしく」クローズアップされた時期もありましたが、本当は亡き愛する人を思う(歌詞の中に「黒いふちどりがありました」「喪服の私は」といった言葉が入るのは衝撃的だった)悲しい歌なのです。

 

その「喝采」は、デビューから4年目での大ヒット。

25歳の若さだったとは思えぬ貫禄ある歌唱にグッと引き寄せられるものがありましたが、今回ここで取り上げるのはオリジナルのヒット曲ではなく、もともとアメリカ民謡(フォークソング)だったメロディーに浅川マキが歌詞を付けた「朝日のあたる家」です。

「洋楽」なので、ボブディランバージョン、アニマルズバージョンなどが知られていますが、やはり日本人には日本語詞がしっくり来ます。 

 

ちあきなおみに関してはほかにも挙げたい歌がたくさんある中で、爆発的にヒットしたわけでもない(そもそもヒットチャートにも上っていない?)この楽曲を選んだのは、単に歌が「ウマイ・ヘタ」の次元では語り尽くせない、歌の世界を「演じる」ことの出来る彼女の稀有な魅力がこの5分の中に凝縮されていると感じたからです。

通常、現代のヒット曲はAメロBメロがあってサビがあって、という構成ですが、この歌、ワンコーラスが8小節しかありません。

童謡並みの短さです。

メロディー的にはシンプルな構成のはずなのに、それをまったく感じさせない。

極限のスローテンポに乗せ、その8小節ごとにすべて違った世界を歌い分けています。

 

また、普通は生歌よりもCDの方が(レコーディングのやり直しや加工がいくらでも利くため)うまく聞こえるものですが、彼女の場合は(もちろんCD音源も良いのですが)ステージで実際に歌っている姿の方がはるかに迫力があります。

とにかく、歌う「表情」にただただ圧倒されるのです。

間奏パートでさえも、「朝日楼という名の女郎屋」…娼婦に身を落とした女性の切なさを、表情と全身の動きで表現しています。

「歌」を超えた、ひとつのドラマを見せられた気分になります。

 


ちあきなおみ 朝日のあたる家 Naomi Chiaki - House of The Rising Sun [Live] 1989