ソロアイドル史第11章~1981年デビュー組
前回(先週)の連載でも触れたように、音楽界、アイドル界を語る時に「80年代」はまさに黄金期。
特に1980年と、次回述べる1982年がその「当たり年」とされている中、1981年はその「狭間」的な年でした。
より正しくは、マッチこと近藤真彦のひとり勝ち状態だったと言えるでしょう。
すでに「3年B組金八先生」でドラマデビューし、ジャニーズの一員としての人気・知名度を得ており、田原俊彦に続き満を持しての歌手デビュー。
その前評判に違わず、デビュー曲「スニーカーぶるーす」は大ヒットします。
(発売日は1980年12月なのですが、当時は「賞レース」にまだ権威のあった時代、太田裕美や渡辺真知子などと同様、翌年のデビューと見なされています)
デビュー曲も十分な大ヒットなのですが、一番の代表作と称されるのは、4枚目のシングルである「ギンギラギンにさりげなく」の方かもしれません。
ほかに、当時「竹の子族」の一員として話題を呼んだ沖田浩之が「E気持」で、さらにひかる一平が「青空オンリー・ユー」、竹本孝之が「てれてZinzin」、堤大二郎が「燃えてパッション」でアイドルデビューしています。
演歌勢では、「函館本線」がヒットした山川豊、「倖せなみだ色」でデビューし、5年後の1986年「無錫旅情」で紅白にも出場した尾形大作が同期です。
女性では、同じく「金八先生」出身、この年「少女人形」でデビューした伊藤つかさや、アイドルポップスソングとして最高音が含まれる(超トリビア?)楽曲「ちょっと春風」(松田聖子の「裸足の季節」「青い珊瑚礁」「風は秋色」と同じ作家陣)でデビューした沢田富美子などが挙げられますが、80年のように新人賞が熾烈な争いを見せる山場には乏しい展開でした。
ちなみに、「センチメンタル・ジャーニー」で知られる松本伊代も1981年のデビューですが、年末に近いデビューだったため、上記と同様の理由で「花の82年組」のひとりに組み込まれています。
珍しく男性歌手デビューが目立つ年でありました。