「やりたい」と「やらなければならない」は紙一重?Mustに縛られない「何もしない時間」の大切さも感じ取りたい
なにかと忙しい現代人の生活。
仕事・家事・育児・食事・入浴・睡眠…
「行きて行くために、どうしてもしなければならない」ことはたくさんあります。
平たく言えば、最低限の「お金を得るために働く」「食べる」「寝る」だけで1日が終わってしまいそうです。
社会的な「人間」として、また「生物」として命をつなぐ、必要な「やるべきこと」はもちろんあります。
24時間という、誰にとっても平等かつ有限の時間。
真に「最低限=Must」の「食べる」「寝る」を差引いた時間をどうとらえ、どう活用し、どう過ごすか…
ここに、その人の生き方の真価が現われるのだと思っています。
特に、一番時間を要している仕事。
上層部や外部から指示されて「動かなければならない」ことが多いのは仕方ありません。
その一方で、「自主的に」現状の行動をもっと実りあるものに変える余地も、きっとあるはずです。
目の前にあるパソコンに「標準装備」されているスケジュール表。
打合せ・〇〇会議・取引先訪問などの「予定表」があって、本日・明日の「実際」の動きが一覧できるようになっています。
実に便利な機能です。
そのほかに、はやり(?)の「to do リスト」なる便利(?)な機能も入っています。
すでに決まっている「本日・近日中」以外の「中期的な目標」をどうこなすか?を書き入れる欄です。
これも、「備忘録」としては有効です。
ただしその「余白スペース」を、その意味合いを深く考えることもせず、ただただ物理的に「to do」で埋めて、バリバリ働いた気になっていることはないのだろうか?とふと感じることがあります。
先日の「働き方改革」記事で取り上げた伝統的な労働観・・・
「玉石混交の用件をスケジュール表に埋めて、それをこなすのに物理的に長時間働くことこそが美徳」
そんな考え方が、やはり社会人のとるべき道?
サクッと帰ることのできる時はサッサと帰る。
そうした行動様式がいまだに容認されていない、重い雰囲気があります。
「やらなければならないこと」の代表格である仕事(会社だけでなく、家事・育児も含みます)から解放されたら、その他のプライベートな時間はもっと自由でありたい。
今度は、
「存分に好きに過ごしてよい時間」をどう過ごすか?
人によって好きなことは違いますが、やりたいこと・好きなことに没頭し、「空き時間を埋める」。
それが楽しくて幸せなのは間違いありません。
「時を忘れて、何かに夢中になる…」
素晴らしいことです。
自分自身そうなので、そこに異議をとなえるつもりはないのですが…
「やりたい」と「やらなければならない」とは、実は紙一重なのではないか?と感じる瞬間があります。
- ジムに行くなら、費用を払ってせっかく時間を作って通っているのだから、自分で決めたメニューは何としてもこなさなければ。
- ゲームをやっていても、ここの関門をクリアするまではやり遂げなければ。
- 面白そうな番組があるから、遅い時間帯で寝不足になりそうだけど、生中継だから録画ではなくリアルタイムで見ておかなければ。
- せっかく人から誘われたのだし、明日ちょっと忙しいけど、しばらく会っていないから出かけなければ。
それらに集中している時は、自分で決めたスケジュールを思い通りに「埋め尽くした」ことに満足して、「幸せアドレナリン」がたくさん放出されています。
しかし、そうして得られた幸福感への欲望には限界がありません。
それが高じると、かつて感じた「幸福感」をさらに得るために、常に何かのイベントを求め、「やりたいことを」なんとかして作り出そうとするようになる。
言わば「刺激依存」状態に陥ります。
ムリしてやらなくてもいいことなのに、「やりたい」がいつしか「やらなければ」になり、もしそれが成し遂げられないと、反動で欲求不満や不安に陥ってしまう。
そう考えると、逆に
「何もすることがない」「何もせずに過ごせる」ひとときに穏やかな幸福を見出すことに目を向ける。
そんなことの大切さも考える必要があるのではないか?と思ったりします。
いつも、でなくてもいい。
何回かに1回は、「何もしない」自由な時間の大切さに思いをはせてみても良いのでは、と。
「空き時間を何かで埋め尽くす」ことだけが過ごし方のすべてではないのではないか?と。