さえわたる 音楽・エンタメ日記

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「マナー」「コンプライアンス」「ハラスメント」~守るべきルールの曖昧さ

仕事上でも、また日常でも、我々はさまざまな「決まり事」に従っています。

生活していく上での「ルール」が、そこには存在します。

 

その「ルール」は、「どの程度守らなければならない」ものなのか。

また、「どうすれば守ったことになる」のか。

時に、そのおおもととなる基準が明確でない場合があります。

 

タイトルに挙げた3つのキーワード

「マナー」「コンプライアンス」「ハラスメント」

に、それぞれ当てはまる要素があるように思いました。

 

マナー

マナーとは、基本的に「こうすべきという厳格なルール」ではありません。

「守らなくても罰せられることはない」

「でも、守らないと咎められることはある」

「守れると、カッコよくてスマート」

実は、あいまいな位置づけにあります。

 

あいさつに始まって、乗り物利用・他家訪問・電話・接客・食事などさまざまな場面で、この「マナー」に遭遇します。

 

ある部分では「常識」や「礼儀」と同義に使われることもあります。

「そんなこと、人間として最低限のマナーでしょ!」ともよく言われます。

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「マナー」はたいてい、

「それが伝統だから」

「昔からそうだったから」

との歴史的背景に基づいて語られることが多いです。

 

しかし、時代の流れとともにその中身が変化していく面もあるはず。

かつ、実はその時代を生きる人それぞれの、典型的には「世代ごとの」異なる価値観に根差しているものでもあります。

 

中高年世代の価値観と、若年世代のそれは永遠に交わらないもの。

それでも、「歴史のパワー」(?)で、昔から受け継がれてきたものが「基準」とされる傾向が強い。

共通する価値観が見いだせないところに「マナーの窮屈さ」が生じます。

 

マスメディアには「マナー評論家」なる職業の人物も登場します。

彼らが正しいと指摘する、マナーに関するコメントの根拠は何なのか?

複数見かける彼らの態度がみな共通して、自分の主張は正しいとの「自信にあふれている」ように見えるため、余計にそう思ってしまいます。

 

そんな中、何をもって「マナーが守れている」ことになるのか?

その判断は、本当は難しいのではないか?と感じています。

 

コンプライアンス

比較的最近(と言っても、ひと昔ふた昔前から)急激に叫ばれ出した印象のある言葉です。

日常生活ではあまりお目にかかる機会がありませんが、企業活動においては、昨今とみに意識されるようになってきました。

 

日本語で法令遵守」と訳される場合があります。

「会社として守らなければならないルールが、ちゃんと守られているか」の意味です。

 

ここで基準となる「ルール」とは…

まずは、国会が制定する「法律」と、行政機関が制定する「命令」、併せて文字通りの「法令」です。

 

次の段階は、どこの会社にもある「規定類」を指します。

会社としてどんな業務を行うかの「定款」から始まって、従業員が働くに当たっての基本的事項を定めた「就業規則」や各種の「〇〇規定」、業務手順やマニュアル等も含まれます。

これらまでをきちんと守っていれば、一応「法令・規則に関しては遵守状態」とされます。

 

ただし「コンプライアンス」は通常、法令遵守」だけでない、もう少し広い範囲の意味を持ちます。

「〇〇規定」と明文化されていない「企業倫理や社会的規範」と呼ばれる要素についても、「あるべき姿を察して意識しなければならない」のです。 

 

社会的規範とは、企業が活動するにあたって、消費者や一般市民のニーズにいかに応えていくかが問われるもの。

その実体には、法令や規定類のように「客観的な基準」があるわけではなく、また時代とともに常に変化します。

「どうしたら守れていることになるのか」が把握しにくい。

その点で、「マナー」と同様な面があります。

 

だからこそ、企業側は躍起になって社内で「コンプライアンス研修」を展開し、その「実体の見えにくいモノ」を追求すべく、社員を啓発し続けるのです。

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ハラスメント

マナーやコンプライアンスと同列にして良いのかよくわかりませんが、「守るべき基準が曖昧」という意味では最たるものではないかと思います。

 

「セクハラ」が流行語大賞になったのは、平成が始まった1989年でした。

それ以来、パワハラ」「モラハラに代表されるように、数えきれないほどの「〇〇ハラ」が登場しています。

 

「ハラスメント」の一番の特徴は、上記に挙げた「社会的規範」よりも、さらに実体が掴みづらいことです。

守るべき基準の「個別性が高く、多様」なのです。

 

セクハラが最も典型的ですが、ハラスメントを受けた側の「主観」で基準が定められ、「ルールの遵守状況」が決まります。

同じ人の中でも、相手によって「基準」が変化します。

「あの人ならOKだけど、この人はNG」となります。

 

次に、パワハラの認定が問題となりました。

 

アクションを起こす上の者は「教育的指導」と認識している。

しかし、それを受ける下の者は「高圧的な嫌がらせ」と受けとめる。

当事者同士に「絶対的な上下関係」がある点が厄介です。

セクハラも同様ですが、受けた側が訴えにくい。

また、そもそも双方の考える「基準」が異なっていて、上下関係の存在ゆえにそれを統一・共有することが出来ず、「ルールを守るすべが見つからない」。

ゆえに「解決が非常に難しい」状態になります。

 

「元祖ハラスメント」であるセクハラはもちろん深刻ですが、パワハラも別の意味で問題の根は深いと感じています。

 

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法律や規定のような「明文化されたルールとなる基準」があれば、「守るべき道」は明らかです。

 

いずれも「基準」自体に客観性がないことが、対応を難しくしている要因だと思います。