さえわたる 音楽・エンタメ日記

オリジナル作品紹介、歌の解説、ヴァイオリン演奏、言葉の使い方、エンタメニュース、旅行記などについて綴っています

悲喜こもごもの思い出がよみがえる~人生初の作曲公表作品「4年4組の歌」

タイトルに「悲喜こもごも」と書いた背景は、ラストに。

 

私が本格的に歌作りを始めたのは、社会人になってからでした。

学生時代は、すでにここで何度も触れているように、部活でやっていたオーケストラや室内楽・ソロでのヴァイオリン演奏活動に(昔風に言えば)「青春のすべて」を捧げる生活を送っていました。

 

しかし、小学生の頃から「オリジナル作品」を作っては歌っていました。

もちろん今のようにパソコンで自在にカラオケサウンドをアレンジし、自主CD制作や配信が出来る時代ではなかったので、ポツポツと鼻歌レベルの話です。

 

小学校の3年生から6年生までの間、私は東京を離れ宮城県石巻市に転校していました。

なかなか土地に、またクラスにも馴染めない日々が続きました。

saewataru.hatenablog.com

そんな4年生のある日のこと、ヴァイオリンや歌作りをやっている話を担任教師としていたところ、

「じゃぁ今度、クラスの歌を作ってみて!出来上がったら、ホームルームや始業・終業式でみんなで歌おう」

のオファーが出されたのです。

 

そうして完成したのが「4年4組の歌」。

メロディーは残念ながら画面にはアップ出来ないのですが、1番の歌詞はこんな風でした。

 

いつも元気な 声がする

けんかしないで 楽しく勉強

ぼくも私も 手を取り合って

楽しい組よ 4年4組

 

当時教室に置いてあったオルガンで私が伴奏しながら、クラス全員で合唱したことを覚えています。

 

すると、他のクラスから「となりの教室でみんなで何か歌っているぞ」と噂に。

それが教頭の耳に入り、面白いと思われたのか、体育館での朝礼の場でうちのクラス全員がステージに上がり、全校生徒の前でこの歌を披露する場がセッティングされたのです。

教室のオルガンが体育館設置のピアノに「昇格」し、それはそれは晴れがましいステージとなりました。

それをきっかけに、クラスメートとの距離も少し縮まった気がしたのを覚えています。

 

これだけであれば「ほろ苦くも懐かしい楽しい思い出」なのですが、リンク記事の末尾にも若干触れているように、私の母校はあの「3・11」で「津波火災」に襲われ、校舎が全焼してしまったのでした。

 

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写真は、その年の12月に現地を訪れた時に撮影したもの。

「僕らは負けない」の横断幕に、一瞬言葉を失いました。


あの頃の「4年4組」のみんなは…と考えると、まさに悲喜こもごもです。

暗い結びになってしまって、すみません。