さえわたる 音楽・エンタメ日記

オリジナル作品紹介、歌の解説、ヴァイオリン演奏、言葉の使い方、エンタメニュース、旅行記などについて綴っています

「ら」抜き

こんにちは。さえわたるです。

 

最近(と言っても、もう数年前から?)日常会話では「ら抜き言葉」がほとんど完全に定着していますね?

 

「見れる」「食べれる」「寝れる」「来れる」…

昔、国語の授業では、「れる」「られる」の使い分け、というテーマがありました。

「可能」の表現をする時、

「五段活用」の動詞は「れる」を、

「上一段活用、下一段活用、カ変活用」の動詞は「られる」を使う

と習った記憶があります。

今の授業では、どうやって教えているのでしょう?

(それとも、今はこうした文法の授業はないのでしょうか?)

 

文法的なことはさておいて、

「見ることができる」=「見られる」

「来ることができる」=「来られる」

というのが正しい表現であるとされて来ました。

 

ところが、現在は「見れる」「来れる」と言う人がおそらく90%以上だと感じています。

 

年齢別に差があるかと思って、TV番組の街頭インタビューなどに注目していると、若い人たちだけでなく、中高年世代の人も普通に「ら抜き」でしゃべっています。

 

TVでは(バラエティーを中心に)しゃべったことがテロップで流れるのが当たり前になっていますが、しゃべった人が「食べれる」「寝れる」と発言しても、テロップ上では「食べられる」「寝られる」と「修正」(?)して表示されていました。

NHKでは、この「修正」が現段階ではまだ忠実に守られていますが、民放番組ではテロップでも「食べれる」「寝れる」と表示され、個人的には「ら抜きの最後の砦」が崩壊していくような気持ちになります。

 

「ら抜き」の二大メリットとして、

・「受身」と「可能」の明確化(受身の際は「誰々から見られる」、可能の際は「だれだれを見れる」と区別できる)

・単純に一音分少なく発音できてラク

が挙げられていますが、単に効率や便利さだけでなく、元来の日本語の美しさを重んじる気持ちがあってもいいかな?と思ったりしています。