映画「スマホを落としただけなのに」が現実になりそうだった危ない話
昨晩、映画「スマホを落としただけなのに」が地上波で放送されました。
恐ろしいですね。
だからというわけではないのですが、今日は偶然同じお話。
新春早々、職場の知人に一大事が起こってしまいました。
休み中に、いまや「命の次に大事」と言っても過言ではないスマホを、なんとひったくられてしまったというのです。
話によれば、飲み会で店を出た後、ほろ酔いで混雑した道路を歩きながら、二次会の店をスマホでリサーチしていた時に、向かいから来た人にいきなりぶつかられ、気づいたら手に持っていたはずのスマホがなくなっていたとか。
「事件」から数日。
何がどうなったのか細かいところはわかりませんが、昨日は無事出社していたので、年越しの間に見つかったか買い替えたかで、とにかく「復活」はしたようです。
最初に話を聞いた時、気の毒なことだとは思いましたが、正直あまり同情の気持ちは湧いてきませんでした。
極端に言えば「自業自得」か、とも。
人込みで前から来る人に気を配ることもなく、
「この道は自分の専用道。歩いていたら向こうが道を譲ってくれるのが当たり前」
と言わんばかりに、視線をスマホの画面に釘付けにしたまま、前を見ずに歩いている人間のなんと多いことか!
ほろ酔い(もしかしたら本格的な酔っ払い状態)の中、どんな状況でスマホを取り出していたか、容易に想像が出来ます。
もしかしたら、ひったくりに盗まれたのではなく、偶然ぶつかった拍子にどこかに落としただけだったのかもしれない、と思ってしまいます。
この話で思い出したのですが…
常にスマホを「手に持ったまま」混雑した歩道を歩いている人をこの頃よく見かけます。
画面を見ていなくても、です。
今すぐ使うわけでもないのなら、バッグやポケットに入れておけばいいのに、と思うのですが…
きっと、常に手に持っていないと不安なのでしょう。
あんな無防備な格好も、治安の良い日本だからこそ通用すること。
海外だったら、パスポートを手に持って歩いているのと同じくらい危険なのではないか、と。
「さぁ、どうぞ盗んで下さい」と言わんばかりの行為だと思います。
他人事ながら、余計な心配をしてしまいます。
それだけならまだしも…
ラッシュで満員状態の電車の中で立っている中、自分の目の前に無理やり「スマホ操作空間」を確保しようとしている人も最近目立ちます。
こちらは極力両手を高い位置にキープして、痴漢の冤罪を避けるため必死の努力をしているというのに…。
スマホがあれば、なんでもできる。
だからと言って、
スマホがあれば何をしても良いわけではありません。
スマホの普及とともに、人は社会生活上最低限のマナーをどこかに置き忘れてしまっている…
そんな風潮を感じてなりません。
「もう(ダメだ)」と考えるか、「まだ(大丈夫)」と考えるか
コップに水が半分入っている。
これを見て、
「もう水が半分しか残っていない」
ととらえるか?
「まだ半分残っている」
と考えるか?
1万円のお金を持っていたが、5000円使った。
「もう5000円しか残っていない」なのか?
「まだ5000円残っている」なのか?
日々の暮らしの中、さまざまな場面でこうしたケースに遭遇するものです。
私自身に置き換えて考えてみると…
良く言えば堅実・几帳面・慎重派。
逆に言えばせっかち・心配性・臆病。
物理的にも心理的にも時間的にも、常に「在庫」「ゆとり」がないと安心できないタチです。
食料品や日用品の買い物。
スーパーの棚を眺めながら歩く。
「醤油は確か買い置きが1本あったはずだけど、もしかして『もう』残りが少ないかもしれないから、念のため買っておこう」と、ふと手を伸ばしてしまう。
「洗濯用洗剤もまだ1箱あったはずだけど、別に腐るものでもないから、目についた時に買い置きしておこう」とカートに入れる。
案の定、家には買ったまんまの洗剤が残っていました。
過度な心配はしなくても大丈夫!
もし自宅に買い置きがなかったら、徒歩1分のコンビニに走ればイイだけのことです。
最悪、醤油1滴なくたって料理が出来ないわけではありません。
小学校時代の夏休みの宿題。
8月も半ばを過ぎると、「あぁ、『もう」あと半月しか休みが残っていない。早く仕上げてしまわなければ!」とすでにその時点で焦ってしまう。
「いやいや、『まだ』半月も時間があるのだから、平気平気!」とは思えない。
仕事が続いて、ようやく待ちかねた休日。
たっぷり遊べる時間はあるはずなのに、日曜日の朝目覚めたとたん「あぁ、『もう』明日の朝は仕事に出なければならない」の思考回路にはまってしまう。
ひどい時には、土曜日の夜からすでに「サザエさん症候群」に陥る始末。
ひとつひとつは小さなことであっても、現状を「もう(ダメだ!)」と考えてしまうか、「まだ(大丈夫!)」と受けとめるかで、心の持ちように、長い目で見れば人生そのものに大きく差が出てきそうです。
何事に対しても「まだ~」と考えられたらどんなにラクだろう!と、アタマではわかっているつもりなのです。
でも、現実にはなかなか思い通り動けないのがなんとももどかしいところ。
今年は、少しずつでも自分の中に「まだ」の精神を植え付けていきたいと感じています。
漫才師・歌手・「快傑えみちゃんねる」のMC&オンステージ~「女帝」上沼恵美子
マスメディアでは関西中心の活動しかしていませんが、その知名度・影響度は全国区と言ってよい上沼恵美子。
10代の頃から漫才師「海原千里」として、姉「海原万里」との絶妙なかけ合いで人気者でした。
当時17歳にして、この話芸とパフォーマンス!
現在につながる片鱗が、この頃からすでにうかがえます。
結婚のため一時引退し漫才からは離れるも、その後上沼恵美子として復帰。
そして現在、関西でテレビ・ラジオの冠番組を複数持ち、名実ともに「お笑い界の女帝」と呼んで差し支えない堂々の地位を確立しています。
ヒット曲「大阪ラプソディー」で知られる実力派歌手でもあります。
幼い頃は、同年代の天童よしみが「ちびっ子のど自慢」のライバルでした。
北島三郎にその歌唱力を評価され歌手デビューを勧められるも、漫才のため断った、というエピソードもあるほどです。
「お笑い」と「歌」。
天は「二物」を与えたのです。
コンサートを開けば、毎度プラチナチケット。
ただ、観客の多くは歌もさることながら、あの卓越した「しゃべり」をナマで聴きに行きたいのだろうと思います。
家庭生活を重んじて、関西を拠点とした活動しか行っていないと言います。
現在全国ネットで彼女の姿を見ることができるのは、平日の午後テレビ朝日系で放送されている「おしゃべりクッキング」だけ。
おととし、あのM-1審査員としての辛口コメントがきっかけで、その強烈な存在感が改めてクローズアップされました。
昨年も、しっかり出場していましたね。
さらに、昨年末の紅白の審査員にも登場!
事前に調べていなかったので、驚きました。
せっかくなら、もう少し彼女に尺を与えても面白かったのに、と感じました。
そう言えば、かつて司会者を務めたこともありましたっけ。
久しぶりに生放送で見たことが、今日の執筆のひとつのキッカケになりました。
関西エリアでは月曜のゴールデンタイムに放映されている
「快傑えみちゃんねる」。
あちらに住んでいた頃は毎週楽しみにしていましたが、関西テレビ制作(ローカル番組)のため、東京では視聴できないものとあきらめていました。
しかし、東京のローカル局・TOKYO MXでオンエアされていることを数か月前に知り、以来毎回録画して見ています。
彼女をメインMCに、これまたお笑い界のベテラン・太平サブローがアシスタント役となる贅沢なキャスティング。
毎回約10名ほどのゲストタレントと、テーマを設けながらトークを繰り広げる内容です。
その点、「踊る!さんま御殿」とコンセプトは一緒です。
しかし、内容や展開はかなり違っています。
一応各ゲストにまんべんなく話を振る構成にはなっているのですが、弁の立つタレントばかり呼ばれるとは限りません。
そうなると、進行役であるメインMCの上沼が、場を盛り上げるためその実力を解放。
トーク番組の体裁をとりながらも、結局毎回彼女の「漫談・独演会」状態になります。
独特な毒舌口調には好き嫌いが出るタイプではありましょうが、そのしゃべりからにじみ出るアタマの回転の速さ、鋭いツッコミは、まさに右に出る者のいない名人芸です。
【懐かしい歌No.32】「Missing」久保田利伸(1986)
この曲をひと言で表現するなら、
「スゴ過ぎて、心を奪われる1曲」
です。
これぞ「ザ・バラード」!
なぜかシングルにはなっていませんが、間違いなく彼の代表曲のひとつです。
カラオケでも、高い人気を誇っています。
シングルで知られている曲の多くが、ファンキーでアップテンポリズムのものであるだけに、余計にこのバラードが際立ちます。
もともとは、音楽プロデューサーとしてこの世界にデビュー。
当時20代前半の若さで多くの歌手、アイドルに楽曲提供をしていましたた。
主な顔ぶれは、
田原俊彦、中山美穂、小泉今日子、鈴木雅之、荻野目洋子、芳本美代子、とんねるず、バブルガムブラザーズなど。
当時の売れっ子ばかりです。
90年代に入ってからも、西田ひかる、森高千里、TOKIO、高橋真梨子などに楽曲を提供。
ここ数年も、CHEMISTRY、MISIA、ISSAなどとコラボしています。
しかし、彼の日本人離れした音楽性は、彼自身の卓越したヴォーカルによってこそ花咲くもの…
それを、この「Missing」で感じ取ることが出来ます。
1986年の発売と聞くと、それだけで世間的には懐メロとひとくくりされてしまいそうです。
しかし、この曲のどこにそんな古臭さがあるでしょうか?
日本語の詞の世界に、洋楽テイストあふれるメロディーラインとサウンドを運び込んで来た、時代を超越したアーティストの登場に、ホントウに度肝を抜かれたものでした。
こうした楽曲を作れるだけではなく、自らの歌唱で観客を魅了もできる…
レコーディングスタジオではない「一発勝負」の生ステージでの歌唱でこのパフォーマンス!
声の質、声量、声域、そして表現力…
「こんなに歌えたら、さぞ気持ちイイだろうなぁ…」
思わず嫉妬してしまうほど、すべてがエクセレント!
ライブならではの、この超スローテンポ。
かつ非常にハイレベルなメロディーに乗せて、感情を余すことなく自由自在に表現できる歌い手は、なかなか存在しません。
五線譜には書かれていないアドリブ的フレーズを随所に織り込んで歌っていることも、容易に想像できます。
バックのサウンドも控えめで、あくまでヴォーカルを前面に押し出した作りになっている…
そこも大きな魅力です。
人前に出て歌う「プロ」の歌い手とは、凡人がとてもかなわない秀でた実力を持っているからこそ「プロ」。
ホンモノの歌が聴きたい。
「ノリの良さ」にかこつけて、ただ高音を張り上げて叫んでいるだけのどこぞのバンドや、大勢で「お遊戯」ダンスをしながら、誰が誰の声かも判別できないユニゾン合唱を繰り広げるだけのどこぞのグループは、「プロ」とは呼びたくない…
そんなことさえ思わせてしまうほどの、圧巻のステージです。
初詣といえば寺社、寺社といえば京都。穴場的お参りスポット「平野神社」
ニッポン人として、1年の始まりはやはりどこかへ初詣、という気分になります。
どこへもお参りしないと、良い年にならないような…
(関東であれば)明治神宮や浅草寺、川崎大師、成田山新勝寺など有名なお参りどころは、お正月期間中だけで毎年200~300万人が訪れると言われる人気スポットです。
人込みに紛れるのも初詣ならでは、とも思いますが、やはりあれだけ混雑するとなるとちょっと苦手。
大晦日の夜から出かけて、外で年越しをする人々の姿が毎回テレビに映し出されますが、寒さと眠気に打ち勝つことがどうしてもできません。
東京在住の私ですが、家族のいる留守宅は京都にあります。
全国的に、否、世界的にも有数の観光地である京都。
そんな京都の「寺社密度」は全国トップレベルではないかと思われます。
有名な神社仏閣があまた存在します。
市内中心部の商店街でも、一歩路地を入ると辺り一帯にお寺が並んでいる通りがあったりします。
そうなると初詣も、あちこちに人が分散しそうなところです。
それでも、ちょっと名の知れた寺社は、どこへ行っても三が日は大変な人出になります。
実際訪れる主だったところを挙げれば…
市内中心部・四条通りの突き当り、有名な祇園エリアに位置する八坂神社。
定番観光スポットでもある平安神宮。
商売人には外せない伏見稲荷大社。
などなど。
ほかにも、住宅地のすぐ隣にもさりげなく鳥居があったりして、数え上げればキリがありません。
仕事始めが早い年には、日にちをずらしてお参りすることも出来ず、お参りのために長い行列をガマンしなければならなくなります。
個人的には、特定の宗派の信仰やこだわりがあるわけではありません。
屋台のお店など出ていなくてもいいから、ゆっくりお参り出来そうなところを、と思っていろいろ探していたところ、静かで雰囲気があっていいなぁと思えた場所を発見。
それは、市の中心部からやや北西に位置する平野神社。
桜が美しい、隠れた名所でもあります。
ソメイヨシノだけでない、さまざまな品種の桜が咲き誇ります。
「学問の神様」として有名な北野天満宮から歩いてすぐのところにあります。
たいていの人は、大通りに面していてバス停からすぐ入ることの出来る北野天満宮だけで満足?して帰ってしまうせいか、平野神社まで足を伸ばすことは少ない様子。
その美しい景色を素通りしてしまうことが多いようです。
お正月シーズンはさすがに人々の姿が見受けられますが、大混雑というほどではありません。
そこそこの広さがありながら、人込みを気にすることなく、ゆったりとした気分になれる場所です。
初詣には、新年らしい賑わいも楽しいものですが、静かに自分の新年に思いを馳せるのも大事だと感じます。
第70回紅白歌合戦。10個のポイントから総括してみた
昨年末に、レコ大に関する記事を書きました。
放送前に、Fooringの最年少受賞もあるか?と予想(?)したところ、その通りになりました。
「分母」は必ずしも相応しくなかったけれど、その中でも審査関係者に少しばかりの「良識」を感じた瞬間でした。
そして、「紅白」。
紅白の感想記事は、すでに放送直後の時点であらゆるネットニュースにあふれていることと思います。
しかし、音楽ブロガーのひとりとして、レコ大同様、時代が変わったとは言えいまだ年末の一大イベントである「紅白」にも、この機会に触れておきたいと思います。
1.2019年の代表曲がないことを改めて痛感した
これは今回に限った話ではありません。
レコ大の記事でも述べたように、ヒット曲が「個別化」「分散化」する中、老若男女問わず誰もが知る歌は生まれない時代になりました。
「今年はやっぱりこの曲だったね!」と言える曲が出ない。
出場者の顔ぶれはここ数年でだいぶ変化し、全体的に若返った印象もいくらか感じられます。
しかし、現役で活動するアーティストでも、披露される曲は発売年に関係ないその人の「代表作」ばかり。
最も「現役感」が強いはずのAKBや乃木坂・欅坂・日向坂に至るまで、歌われたのは「古い曲」でした。
「最新のヒット」より「耳馴染み」を優先した結果だと思います。
国営放送のパワーで、どれだけビジュアル的に派手なステージ構成を繰り広げても、肝心の「歌」で感動させる要素がなければ、効果はありません。
2.「メドレー」「スペシャルバージョン」だらけの選曲だった
「〇〇スペシャルメドレー」が目立つのも、ここ数年の特徴です。
「Fooring」、冒頭の「パプリカ」から、ふだんは聴かれない英語バージョン。
「AKB48」、「恋するフォーチュンクッキー」は、何か国語が登場したのでしょう?
「お祭り」だから、それもイイのかもしれませんが…。
「最新作」をちょっとだけ歌って、あとは古いヒット曲…というパターンも目立ちました。
それなら、ヒットした有名な曲の方だけ聴いた方がマシかも?と感じました。
「ゆず」は、「SEIMEI」ではなくいっそのこと「栄光の架橋」を全部聴きたかった。
「Perfume」は、ほとんど歌のない前振り(的に聞こえた「Fusion」)はカットして、懐かしい「ポリリズム」に時間を充てて欲しかった。
「MISIA」は、紅組トリなのだから「Everything」をリズミカルにいじるのではなく、本来のバラードアレンジで聴かせて欲しかった。
3.「特別企画」の名称は意味不明だったが、歌は良かった
「ディズニーシリーズ3部作」は、今年を象徴する作品として、映画の素晴らしさとともに歌い継いでいって欲しい歌だったと感じました。
「YOSHIKISS」、コアファンでない私は、YOSHIKIがこれほどまでに「大物」扱いされるところがイマイチ理解出来ていませんが、コラボ自体はユニークで目を惹くものでした。
「ビートたけし」、あの味わいは芸人だけでなくてもグッと来る歌唱だったのでは?本人作詞・作曲の歌なのに、途中伴奏より1泊早まって歌ってしまったりして、あのたけしでも緊張するのかな?と。
「竹内まりや」、ステージとは別の場所だったので、最初収録かと思いましたが、歌唱後のやりとりでナマ歌と判明。本人作曲の作品ではなかったけれど、なぜか「深かった」!
「松任谷由実」、30数年前に書かれた個人的にユーミンソングNo.1の「ノーサイド」が、このタイミングで聴けたことに、感慨いっぱい。松任谷正隆が電子ピアノを奏でる「婦唱夫随」のサウンドも良かった。
4.初出場でも素晴らしかった3組
「Official髭男dism」、昨年たくさんヒットした中の代表作「Pretender」をMVでなく初めてナマで聴きましたが、レコーディング音源と変わらぬクオリティーに改めて感心!
「King Gnu」、「白日」のパフォーマンスで見せたあの独特な世界観は、これまでのJ-POPシーンでは味わったことがない稀有な存在でした。
「菅田将暉」、あんなに緊張している姿を初めて見ましたが、彼の個性に合う作品に巡り会えたこと自体はとても良かった。
5.持ち歌を披露出来ないのは気の毒
「Hey! Say! JUMP」、熾烈な「ジャニーズ枠」の中から出場を果たしたのはラッキーだったかもしれませんが、彼らに「上を向いて歩こう」を歌わせるのは、いくらスタンダードナンバーと言っても時代錯誤過ぎるのでは?
「島津亜矢」、2018年は「時代」、そして今回は「糸」。着物姿の演歌歌手は、何でも器用に歌いこなしますが、中島みゆき作品はやはり本人バージョン。いっそ彼女の得意とするホイットニー・ヒューストンを選んだらいいのに、とさえ思います。
6.純粋に「歌を届ける」演出ではあったが
今年はラグビーワールドカップとディズニー映画のヒット。
これが演出上の「二枚看板」だった気がしますが、VTRやインタビューに時間を充て過ぎることなく、全体的には「歌そのものを届ける」ことに気を配った構成になっていたと思います。
ただし…
「水森かおり」、巨大衣裳(セット?)による小林幸子のマネから脱却したと思ったら、今度はイリュージョンとのコラボ!歌が何だったのか覚えていません。
「三山ひろし」のけん玉企画も残念!「二匹目のどじょう」は狙ってはいけないのです。本人も観客も、本来の歌に集中できません!
7.演歌劣勢。中高年層の紅白離れが進みそう
演歌ジャンルの出場歌手枠が、年々少なくなっています。
また、気づきにくいことですが、彼らへの時間配分もさりげなく圧縮されています。
演歌は3番まであるのが標準ですが、普通の歌番組ではワンコーラスカットでツーコーラス分(1番と3番)を歌います。
ところが、紅白バージョンではさらにカットされ、1番&ハーフの時間しか与えられません。
演歌=中高年と必ずしも直結は出来ませんが、NHKの貴重な視聴者層の紅白離れを一層招きそうな印象でした。
高齢化が進む中、彼らの受け皿役は、30年40年前のヒット曲を歌い続ける郷ひろみや松田聖子なのかもしれません。
8.「あと1秒の余韻」がとれない大忙しの進行
メニューが盛りだくさん過ぎて、「決められた台本通りに進めなければ・時間内に納めなければ」の慌ただしさがひしひしと伝わってきてしまっていました。
歌い終わったあと、聴き手には味わいたい「余韻」があります。
しかし、その1秒のいとまもなく「ありがとうございました。続いては…」の声にかき消されてしまう。
数年前、照明を真っ暗にして歌って登場した美輪明宏のステージは、「お祭り騒ぎ」とはまったくの異空間を作り出しました。
前回米津玄師が別会場で、ホールの喧騒とはかけ離れた「静寂の空間」での歌唱を繰り広げました。
そうした「じっくり・ひっそり1年を振り返る」瞬間が、今回は感じられませんでした。
9.嵐はそんなにすごいのか?
国立競技場を舞台に歌った「カイト」は、元歌を知りませんがほぼフルコーラス。
そして、大トリは上述の「メドレー」で、デビュー曲と最新曲を披露。
白組司会のポジションも占め続けている。
個人的に、嵐がキライなわけではありません。
活動が今年いっぱいだから、なのもよくわかります。
しかし、「大物」と呼ばれる歌い手も揃う紅白の場で、これだけ盛り立てられ続けるアーティストを、ほかに知りません。
10.もはや「勝負」「合戦」ではない
番組スタート以降長らく、「紅」対「白」の対戦形式にすることがコンセプト。
構成上の「大前提」でした。
しかし、今回歌手同士の「対戦色」は一切感じられませんでした。
もう、その形式でOKなのだと思います。
それぞれ違った持ち味のある個々の歌い手。
「紅」「白」のどちらが優れているか、客観的に評価すること自体出来ないはずなのです。
番組名が「合戦」なので、どちらかを「優勝」させないと締められないのはわかっていますが…
以上、非常にざっくりとですが、私なりに総括してみました。
ブクマ・ひと言でもコメントをいただけたら、とてもうれしいです。
【懐かしい歌No.31】「雨のバラード」湯原昌幸(1971)
2020年になりました。
今年もよろしくお願いします。
引き続き、何十年前にもクオリティーの高い(楽曲の作り、歌い手双方)歌があったことをお伝えするため、自分なりに過去の名曲を取り上げていきたいと思います。
元日にご紹介するのは、もはや半世紀近く前になる1971年発売の
湯原昌幸「雨のバラード」。
前年の1970年にデビュー。
2枚目のシングルとして出したこの曲が、オリコン1位となる大ヒットを果たしました。
この曲に限らず、当時のヒット曲は、とにかく構成がシンプルなのが特徴。
Aメロ、Aメロ、Bメロ、Aメロ…でワンコーラスが形成されている。
パターンがAとBしかない曲が非常に多いです。
冒頭Aメロがサビそのものです。
かつ、それぞれのメロディーもシンプルで覚えやすい。
大ヒットと言いながら、大昔の歌ですのでご存知ない方がほとんどかもしれませんが、初めて聴いても冒頭のAメロ
「タ~タタ タ~タタ タ~タタ ターター」
の繰り返しで、すぐにメロディーが覚えられてしまうのではないでしょうか?
以前取り上げた「ラヴ・イズ・オーヴァー」も、まさにこれと同じ。
冒頭からいちばん「オイシイ」メロディーが登場する、A-A-B-Aのパターンでした。
2番が途中のBメロから始まる「ワンハーフ」であることも共通しています。
すぐ耳に残る。
演奏時間も短い。
そのシンプルさこそが魅力ではないかと感じています。
2019年にセールス実績を挙げた曲を、改めてレビューしてみました。
偏見なく聴くと、どの曲もそのクオリティーの高さに驚きます。
メロディーラインも、リズム・ハーモニーも、さらに詞の世界も非常に斬新なものばかりです。
(下記記事で歌手の一部を記しています)
それはそれで非常に素晴らしく、強く評価したいと思っています。
その一方で、「単純さの美学」にも、また捨てがたい魅力があるものです。
湯原昌幸は、歌い手だけでなく、その巧みなMC力でコメディアンにも挑戦。
往年のピン芸人(その頃そんな言葉はありませんでしたが)・せんだみつおと「せんみつ・湯原」のコンビとしてコントのレギュラー番組を持ったり、数々のバラエティー番組でパネラーやレポーターを務めたりもした、「元祖マルチタレント」でした。
その後、元アイドルの荒木由美子と結婚し、夫婦で番組に出演する機会も多く見かけました。
しかし、「本業」の歌手としての実力はホンモノ。
童顔なルックスとは対照的な甘い歌声。
当時24歳にして、まさに絶品の表現力です。
世の「賭け事」~どこまでが「お楽しみ」で、どこからが「ギャンブル」か?
毎年、年末の風物詩となっている「年末ジャンボ」の抽選風景。
今年も、一攫千金を夢見て、ニッポン人のうち何十万人・何百万人が買い求め、結果を楽しみにしていることでしょう。
確率的に期待値で考えたら、間違いなく損をする買い物ではあります。
その意味では、一種のギャンブルと言えるかもしれない…
また、最近のニュースでは思わぬ形でIRが注目されてもいます。
本来は「統合型リゾート」のはずなのですが、カジノと同義語の問題のように捉えられています。
そこで、数ある「賭け事」のうち、「どこまでが『お楽しみ』で、どこからが『ギャンブル』なのか」を、自分なりに考えてみました。
宝くじ
買う段階で
「どこで買ったら当たりやすいのか」
「バラと連番どちらが良いのか」
などといろいろ迷い、考え抜く。
買ったら買ったで、抽選日まで当たるか外れるかの「ワクワク感」を味わえる。
そうした楽しみな時間に対してお金を払っている…と考えれば、よく言われる「夢を買う」気持ちも理解できます。
買ってもいないのに、
「〇億円当たったら、どんな生活をするのだろう?」
「もう働くのは辞めるのかな?」
などと勝手に空想するのも楽しみのうちです。
しかし、実際に窓口の行列に並んで買いに行ったことは、一度もないのです。
会社で「みんなでお金を出し合って買って、当たったら山分け」の誘いを受けたこともありますが、それにも乗ったことがない。
一度くらい買ってみても?
う~ん、それでもやっぱり一歩が踏み出せません。
パチンコ
今も昔も、駅近の街中には必ず1件や2件パチンコ屋があり、開店時刻の何時間も前から行列が出来ている。
世間ではお手軽で人気の娯楽なのだということが、それだけでわかります。
ただ、負ければ負けるほど抑えが利かなくなって、取り返してやろうとどんどん追加投資をしてしまいそう。
そうなるのが明らか(と自分の中では思っている)なことにお金を使い、なおかつ貴重な時間を何時間も費やす。
そう考えると、どうしても手が出ないのです。
競馬・競輪・競艇
まず、どうやって参加するかのルール自体が理解出来ていません。
電車内で競馬新聞に読みふけっている人の姿から、「現場はあまりガラが良くなさそう…」などと、イメージを作り上げてしまう自分がいる。
テレビCMもガンガン流れていますし、実際はそんなことはないのだと思いますが…。
また、素人にとっては競馬・競輪・競艇場の存在自体が非常にハードルの高いものです。
カジノ
遠い昔、初めての海外旅行先は、アメリカ西海岸&ハワイでした。
サンフランシスコ・ロサンゼルスと観光し、グランドキャニオンや本場のディズニーランドを堪能した後、全米随一のギャンブルシティーであるラス・ベガスにも立ち寄りました。
ベガスと言えば、そう、カジノです。
せっかくなのでやってみても、と一瞬思ったのですが、結局会場には入らずじまいでした。
一緒に旅したツアーメンバーが、前日ルーレットで何十万円も損した話をナマで聞いてしまったこともあり、旅の記念と割り切るにはやはり代償が大きすぎる、と改めて感じて、二の足を踏んでしまったのです。
やはりカジノイコールギャンブル性が高くて危険、という感覚が大きな要因になっているような気がします。
麻雀
今はどうかわかりませんが、学生時代キャンパスの周りには雀荘が数多くありました。
講義が1コマ(90分)空いたりすると、友人たちはこぞって時間つぶしに雀荘に出かけ、1コマ分の時間で終われなくなることも多々ありました。
単に4人で卓を囲むだけなら、ゲーム感覚で少しは興味も湧きます。
しかし麻雀は、それだけではモチベーションが上がらないらしいです。
点数に応じてお金を賭けるのがどうやら「常識」らしいです。
いわゆる「公営ギャンブル」とは異なり、個人間でのそうしたやりとりは本当は行ってはいけないことになっているはずなのですが、プレイヤーにそんな感覚はありません。
正義漢ぶるつもりは毛頭ないのですが、そこのところが何ともやりきれないのです。
というわけで、結局どれにもエントリーできない「臆病者」でした。
大晦日まで毎日お付き合い下さり、ありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎え下さい。
ブログを始めて初の年越し。
年末年始は、ブログもお休みの方が多いことがわかりました。
そうあるのが、自然なのかもしれません。
私は、明日ももちろん投稿します。
開設以来の毎日連続投稿、まだまだ更新します。
引き続きご愛読よろしくお願い致します。
【懐かしい歌No.30】「馬と鹿」米津玄師(2019)
今年、個人的に最も印象に残った曲。
それが米津玄師「馬と鹿」です。
いつもの「懐かしい歌」と違い、ちょっと新し過ぎますが、興奮は今年のうちにということで、駆け込み的に取り上げました。
今年7月から9月にかけてオンエアされた、ラグビーの世界を舞台にしたTBS系ドラマ「ノーサイド・ゲーム」のテーマソングとして書かれたこの曲。
そのため、今年大いに盛り上がったラグビーワールドカップを話題にしたシーンでは、テレビ局の垣根を越えてBGMとしてよく流れました。
昨日の話の続きになりますが、今年は何と言ってもOfficial髭男dismの年。
あれだけ売れたのに、レコ大ではノミネートさえされていません。
客観的に考えて、「Pretender」がもし大賞だったら納得できたかもしれません。
一方、「今年はラグビーの年だった…」と考えると、大賞に「馬と鹿」が選ばれていても、決しておかしくはなかったと思います。
(昨日あれだけ言っておいて、やはり今晩が気になっていることがバレてしまいました…)
さて、この曲でまず気づくこと。
歌詞にタイトルフレーズがありません。
詞の世界から、どうやってこのタイトルが生まれたのか?
まずテーマがあって、詞を書いたのか?
それとも詞が出来上がってから、タイトルを付けたのか?
不思議と言えば不思議なタイトルですが、そんな疑問など軽く超越した文句なしの傑作だと思います。
メロディーライン。
冒頭からBメロにかけては、通常のドレミファソラシドに加えて、シャープ・フラット(半音上・半音下)を随所に駆使した、複雑で非常に音の取りにくい構成になっています。
それにつれて、コード進行も複雑に推移していきます。
サビの
「これが 愛じゃなければ 何と呼ぶのか 僕は知らなかった」
の部分では、そうした「混沌」が解放されるように、詞と曲がぴったりマッチして、実にドラマチックに耳に残ります。
サビでも、音階のシャープフラットは多用されています。
鼓動を感じさせるような、速すぎず遅すぎずのテンポもちょうど良い感じ!
バックアレンジ。
冒頭イントロなしでいきなり始まるヴォーカルを、これ以上ないと思われるシンプルな8ビートでフォローし、徐々に盛り上がってサビで一気に楽器を集めて爆発させる展開。
まさに心憎いばかりの演出です。
特に、2番のあとのDメロを経た後、ほんの一瞬の静寂をおいた後サビが再び現れるところは、もう「グッと来る」としか言いようがない!
実はあまり目立たないのですが、出だしからサビにかけて、メインヴォーカルを3度上の音程でひっそりと支えているバックコーラスも、楽曲を生かす絶妙なスパイスになっています。
ロングヒットの「Lemon」も「Flamingo」も良い曲ですが、個人的にはこの歌にかないません。
「輝く?日本レコード大賞」~もう「賞」を争う時代ではなくなった
明日は「レコード大賞」の日です。
「輝く」が付くんですね!
もはや遠い昭和の時代。
「はやり歌」に興味のない人々も、大晦日だけは5時間近く歌番組を楽しむのが普通の光景でした。
午後7時から9時までは「レコ大」。
9時から11時45分までは「紅白」。
視聴率の高さがそれを物語っています。
レコ大の最高視聴率は50%超え。
紅白に至っては80%台、なんて時代もありました。
放送時間の長さも大きく変わりました。
昔は、レコ大は(CMやスポットニュースを含めて)2時間、紅白は2時間45分で終了していたのです。
明日のレコ大は、17時半から22時までの4時間半。
(紅白も、19時15分から23時45分までの4時間半)
放送日を大晦日から12月30日に繰り上げ、放送時間を2時間から4時間半に拡大した分、内容も密度も2倍以上になっているのでしょうか?
ここ10年の視聴率は、10パーセント台の半ばあたりをずっと推移しています。
それでも「テレビ離れ」の現代では、存続に値するほど健闘している方なのでしょうね?
日本レコード大賞を主催しているのは、「公益社団法人・日本作曲家協会」。
なんと、私が会員として所属している組織です。
「当事者」側の人間(?)が、あまり批判めいたことを言ってはいけないのかもしれませんが…
今年の優秀作品=「大賞」候補10作品
アーティスト名だけ並べると…
Little Glee Monster、三浦大知、欅坂46、AKB48、純烈、乃木坂46、氷川きよし、日向坂46、DA PUMP、Fooring
(番組HP掲載順)
となっています。
なぜこの顔ぶれなのか?
選考基準が不透明です。
10曲のうち4つのポストをAKBグループが占めています。
もし配信を含めたCDのセールスだけで決めているとしたら、数値でトップの歌い手を大賞にすれば公明正大です。
ほかは本当に売り上げ上位に入っているのか?
何かで話題になったのか?
リトグリがラグビーで話題を呼んだというなら、昨年同様今年も大活躍し、同じくTBSのドラマを通じて同じくラグビーに貢献し、明らかにセールスで上回っているはずの米津玄師はどうなのか?
今年一番ブレイクしたと言って過言ではないOfficial髭男dismも、King Gnuも、あいみょんも選ばれていない。
(King Gnuとあいみょんは「優秀アルバム賞」にはなっていますが)
彼らに賞は、もはや必要がないものなのかもしれませんが。
辛うじて、昨年のDA PUMP「USA」に似て広範に人気をあげたFooringがノミネートされていますが、グループ平均年齢11歳の「最年少大賞受賞」はあり得るのか?
…などと予想するのも空しくなります。
大賞の選考は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって行われている「ことになって」います。
選考委員として、音楽関係の専門家が名を連ねてもいます。
しかし実際のところは、レコード会社や事務所などの力関係により受賞者が決まっているのでは?との指摘も常に囁かれています。
平成に入ってからは、受賞そのものを辞退するアーティストも現れるようになり(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)、「大賞」の権威そのものが失墜しているのが現状です。
現代のヒット曲は「個別化」「分散化」しています。
AKBにしてもアニメソングにしても、一部のコアなファンがCDを何十枚も爆買いした結果がヒットチャートに載っているだけ。
発売初週だけ1位を獲得し、そのあとはすぐ忘れ去られています。
好き・嫌いにかかわらず、老若男女誰もが知っていて口ずさめるようなロングセラーの「国民的ヒット曲」は、もう生まれない時代なのです。
「賞レース」という言葉がまだ健在だったころ。
TBSの独擅場だったレコ大に対抗して「日本歌謡大賞」や「FNS歌謡祭」(フジテレビ系)、「日本テレビ音楽祭」等の音楽賞が乱立していました。
しかし現在それらは「音楽賞番組」としては姿を消し、毎年恒例のMステスーパーライブやCDTVライブ同様、単なる「歌のお祭り」に変貌を遂げています。
そんな時代、
「音楽賞」に権威や価値は果たしてどれだけあるのか?
素朴にそう感じます。
そのうち、番組名になっている「レコード大賞のレコードって何?」と、真剣に尋ねられてしまいそうです。
【懐かしい歌No.29】「WINTER SONG」Dreams Come True(1994)
クリスマスは過ぎてしまいましたが、この歌もタイトル通り「冬の定番曲」のひとつということで、ご容赦下さい。
Dreams Come True(ドリカム)は1989年、平成の始まりと共にデビュー。
同年発売された3枚目の「うれしはずかし朝帰り」のヒットで注目され、翌年以降「笑顔のゆくえ」「Ring! Ring! Ring!」「Eyes to me」などが立て続けにヒットします。
1992年秋には、2か月連続で発売された「決戦は金曜日」と「晴れたらいいね」が同時期にヒットチャートを賑わせました。
そして1995年、彼らの最大のヒットとなる「LOVE LOVE LOVE」が生まれます。
21世紀に入ってからも、発売されるシングルはコンスタントにトップ10入りしています。
最近では、昨年の朝ドラ「まんぷく」の主題歌として、「あなたとトゥラッタッタ♪」が半年間テレビで流れ続けました。
先日の国立競技場オープニング・セレモニーで華やかなステージを彩ったアーティストの1組となったことも、記憶に新しいところです。
この「WINTER SONG」は、そんな彼らの活躍がピークだった1994年1月、すでに1990年11月に同じメロディーで日本語の歌詞によりリリースされていた「雪のクリスマス」を追いかける形で、英語詞による再アレンジで生まれました。
1月発売ですから、すでにクリスマスの時期は過ぎていたわけですが、オリコン初登場1位を獲得しています。
- 同じメロディーの曲が
- 同一アーティストによって
- 違う歌詞により
- シングルとして発売され
- 双方がヒットする
この条件を全部クリアするのは、きわめて珍しいことです。
(1985年に、中森明菜「ミ・アモーレ」の発売後「赤い鳥逃げた」のリリース例あり)
「WINTER SONG」のアレンジは元歌と似たイメージなのですが、こちらの方がよりダイレクトにクリスマスを思い起こさせるサウンドとなっています。
イントロからエンディングに至るまで絶え間なく流れ続けるトナカイのソリの音が、聴き終わったあとも余韻として残る感じがします。
邦楽のジャンルなのに歌詞はすべて英語…
異色の歌だけれど、大好きなメロディーラインとサウンド。
なんとか自分も歌えるようになろうと、必死になって練習した思い出がよみがえります。
毎年この季節になると、この曲で頭の中がヘビーローテーション状態になります。
ドリカムには、上に述べたようにセールス上はこの曲を上回るヒット曲がたくさんありますが、個人的にはぶっちぎりのトップソングです。
(曲は0:40あたりから)
「いまお電話よろしいですか?」や「要領を得ない留守録メッセージ」は、小さな時間泥棒
ビジネスシーンにメールが登場してはや四半世紀。
社内外共に、コミュニケーションの多くがメールで処理されるようになり、オフィスに電話の音がけたたましく鳴る光景は少なくなりました。
それでも、各自のデスクに置いてある固定電話がなくなることはありません。
仕事に集中している時に限って、電話がたくさんかかってくることがよくあります。
面と向かっての会話であれば、今話しかけてもOKかどうかの雰囲気を読むことが出来ますが、電話だとそれが出来ない。
かける方は、当然何かしら連絡をしなければならない(しかも、メールのやりとりを待っている時間がない急ぎの)用事があって、相手方に電話をするわけです。
一方、受ける立場においては、どんな状況であっても一旦その時点で思考回路が否応なく強制的に寸断されることになるわけです。
こればかりは宿命でどうにも仕方ないのですが、そうした状況に遭遇するたびに、なんともやり切れない気持ちにさせられます。
こんな時、相手から発せられる第一声。
社内であれば「お疲れさまです」、社外であれば「お世話になっております」の常套句があいさつの言葉としてまず交わされます。
そこまではまぁアリです。
ところが、そのあとにこれまたほとんどの割合で、
「いまお電話よろしいですか?」
のひと言が聞かれることが多いです。
唐突な連絡音で、さっきまでの思考と集中力はすでに途切れてしまった。
だけど、とりあえず大丈夫だから(大丈夫な状態にムリヤリさせられたから)、こうしてすでに電話に出ているのです。
相手側からの気遣いの言葉であることは十分理解できます。
しかし、こう尋ねられたからと言って、Noと返答できるものでもありません。
(このひと言はたいてい社内の電話で発せられるので、相手が下の人間で、本当に立て込んでいる時は「またあとにしてくれる?」「あとでこちらから折り返すから」と答えることもまれにありますが…)
タバコを手にした喫煙者に「いま吸ってもよろしいですか?」と訊かれるのと似ています。
お互い忙しい時に、その都度このやりとりを重ねる必要があるのかな?とつい思ってしまうのです。
何事も効率主義の世の中。
ささやかなことでも毎度積み重なると、本心とは裏腹の愛想の良い返答をすることがけっこうなストレスにつながる可能性があります。
また、外出先や出張で使う業務用のケータイ関係では、
留守録メッセージが残されることがよくあります。
これにも小さな苛立ちを感じる場面があります。
残されたメッセージを再生してみると、
「〇〇です。また改めて連絡します。」
とだけ残されている。
どんな用なのか?
急ぎなのか?
放置しておいてよい程度の連絡か?
メールでの返信が欲しいのか?
せっかくのメッセージ。
もうひと声だけでいい、具体的に残してくれればよいものを。
これだけでは何の用件だったのか、対応のしようがない。
わざわざメッセージを残した意味がないのでは?と。
かけた方、受けた方、お互いにムダな時間が流れます。
電話は公私共に、日常生活になくてはならない便利な存在です。
だからこそ、その使いこなし方には直接の会話以上の配慮が必要だと強く思います。
聞くたびに気になってしまう、定番化しているお正月シーズンの「二重表現」。ほかにもたくさん
私が「言葉の使い方」カテゴリーで触れている記事は、「本来はこういう意味合いだった」という前提や解釈があって綴っているモノがほとんどです。
しかし、かつて正しいとされていた言葉・表現も、時代に応じてどんどん変化していくもの。
「時を超えて絶対的に正しい基準など存在しない」ことも理解しています。
それを踏まえても、なお
「やっぱりこの使い方や基準はブレて欲しくない」
と感じる表現も数多くあります。
そんな中、典型的に違和感を覚えるもののひとつが、いわゆる
「二重表現」「重複表現」
と呼ばれるものです。
お正月。
年始の挨拶の時に必ずと言ってよいほど発せされるのが
「新年明けましておめでとうございます」
のメッセージ。
年賀状にも多用されるフレーズです。
しかし、この言葉を紐解いてみると…
「あけまして」の「明け」には、もともと「古い年が終わって新しい年になる」という意味があります。
ゆえに、そこにさらに「新年」を付けるのは
「頭痛が痛い」
「白い白馬」
と言っているのと同じ。
そこが違和感の要因です。
もうひとつが
「元旦の朝」
という言い方。
「元日」と「元旦」。
実質的にほとんど同じ意味として使われているケースが多いです。
しかし、「元日」とは1月1日という1日中を指すもの。
これに対して、「元旦」とは1月1日の「朝」を指すもの。
従って、「元日の朝」ならばまだアリなのですが(実際はあまり口にすること場面はありません)、「元旦の朝」は「1月1日の朝の朝」と言っていることになり、やはりこれも二重表現になります。
今さら言うまでもなく、ご存知の方々ばかりとは思います。
しかし、実際には明確に両者を意識して区別している、とはなかなか感じられません。
お正月に関する表現のほかにも、
「まず最初に」
「必ずしも必要ない」
「あとで後悔する」
「違和感を感じる」
「過半数を超える」
「被害を被る」
「製造メーカー」
など。
口でしゃべっている分には気づかないけれど、いざこうして文字にしてみると、明らかに意味の同じ言葉を重ねて使っていることがわかります。
そこで、ふと違和感に気づいてしまう。
そんな、ふだん使いになっている二重表現はいくらでもあります。
お正月の言葉に関しては、正しいかどうかはもはや二の次になっていて、特に深い意味は考えず「慣用句」として使っているもの。
おめでたい時に、いちいち細かいことを気にするのもどうかな?とは思っています。
ただ、お正月シーズンにこの表現を目に・耳にするにつけ、いつも頭の中に「?」が灯ってしまうのでした。
【怖い体験談から】貴重品は必ず身に付ける。バッグに入れて歩くのは不安
外出時の「貴重品3点セット」があります。
財布・カードケース(定期券入れ)・スマホの3つ。
カード類はスマホカバー📱と一緒に入れる、もしくは財布のポケットを利用する、という方々も多いと思いますが、私はリスク分散?のために別々にしています。
家のカギは、財布の中に入れて持ち歩いています。
小銭入れの中にコインとカギが同居して、お互いに取り出すのが大変なのですが、いろいろ考えた結果これがベストと判断して、現在に至っています。
ポイントは、これらを分けて持つことではなく、
必ず身に付けていること。
通常ビジネスバッグには、こうした貴重品を入れるための専用ポケットが細かく付いています。
つまり、「貴重品をバッグに入れて歩く」ことが前提になって作られているのですね。
ところが個人的に、そうした利用法がどうしてもできない!
大切なモノは手に持つのではなく、身に付けていないと不安なのです。
その結果、スーツであっても私服でも、シャツやズボンのポケットにこれらをすべて収納することとなります。
オシャレ的な観点から言えば、入れる財布の方も入れられる服の方も型崩れして、本当は良くないのかもしれません。
海外出張時には、「超貴重品」としてこれにパスポートが加わります!
出国時の荷物検査の時など、ポケットの中身を全部カゴに移さなければならないので、その面倒くささはハンパないことこの上ない!
(カバンに入れていても、同じことですが)
なぜバッグに貴重品を入れないか?
慣れない土地、不安な気持ちでチェックインの行列にいた時、手続に集中していた利用客のビジネスバッグが盗まれる現場を目撃してしまった経験があるからなのです。
大量の荷物を持って歩く時、キャリーバッグの上にビジネスバッグを積んでおきますよね?
窃盗犯は、貴重品はビジネスバッグにありと狙って、重たいキャリーバッグには目もくれず、上部のビジネスバッグだけを盗んでいこうとしたのです。
幸い、自分のいた場所からはかなり距離がありましたし、空港警察?にすぐ取り押さえられたようでしたが、個人的にはけっこうなトラウマになっているのです。
「マイ・ポリシー」は、それだけにとどまりません。
大きくてかさばるキャリーバッグ。
これも、手の届くところから極力離したくない。
新幹線に乗る時は網棚に上げてしまえばいいのに、しかも貴重品は身に付けているのだから、中身は着替えぐらい。
かさばるけれど、大したものは入っていないのです。
そんなに気にしなくても構わないのに、やはり不安でず~っと足の間に挟んでいたりします。
これがより一層エスカレートして、海外出張でも出来る限り機内持ち込みサイズのコンパクトなキャリーバッグで済ませようとしています!
仕事なので私服は持っていく必要がないし、うまく荷造りをすれば、スーツの替え1着分を含め、1週間程度の出張ならなんとかなります。
ワイシャツは現地滞在先のホテルでクリーニングに出せば、同じところに連泊しているので何とか着回しが出来ます。
肌着や靴下は洗面所で洗濯して、1晩部屋に干しておけばOK。
そんなにまでして、なぜ荷物を減らすか?
これにも理由があるのです。
以前、機内持ち込み不可のサイズの大きなスーツケースを預けて、違う空港に届いてしまったことがあったのです。
ただでさえこれから仕事、という緊張感でいっぱいのところに、追い打ちをかけるようなアクシデント。
結局、荷物にありつくまでまる1日以上。
途中どんな手続をしてどう解決したかも覚えていないほど、とにかく混乱しまくりでした。
それ以来、極力「預けない派」で通してきました。
これまで最長の海外出張は、土日をはさんで10泊11日でしたが、その時も機内持ち込み可のサイズ1つで乗り切りました。
我ながら困ったクセだなぁと思うのですが、こればかりはどうしようもありません。
【懐かしい歌No.28】「サイレント・イヴ」辛島美登里(1990)
この1か月ほどのいわゆるクリスマスシーズン。
街を歩いていればいろいろなお店から、
テレビを見ていれば番組のBGMとして、
必ず何かしらのクリスマスソングが流れています。
先日「メリクリ」の際取り上げたように、クリスマスを歌った日本発のヒット曲も数多くあります。
「日本一売れているJ-POPクリスマスソング」であろう山下達郎「クリスマス・イブ」は、なんと今年も「2019年ヴァージョン」として再リリースしています。
それなのに、よく聞こえてくるのはなぜか洋楽。
特に多いと感じられるのが、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス」と、ワム!の「ラストクリスマス」。
さらに「恋人たちのクリスマス」は、発売から25年にして初めてビルボードチャート1位を飾ったこともあってか(最初の発売時はアルバム収録曲だったため、ランキングの対象外だった)、ここへ来て話題再沸騰といった感じです。
テレビの場合
「日本語の曲を使うと、歌詞とナレーションの日本語がぶつかり合ってしまい、BGMになりにくい」
という話を、業界関係者から聞いたことがあります。
ちょっと納得しました…
さて、イヴの今宵。
数あるクリスマスソングのうちで「切なさ」系では屈指の名曲、
辛島美登里「サイレント・イヴ」
を取り上げました。
TBS系ドラマ「クリスマス・イブ」の主題歌として1990年の11月に発売され、オリコン1位も獲得。
クリスマスソングでありながら、クリスマスをはさんで翌年にもまたがるロングヒットを遂げました。
以降「クリスマスシーズンと言えば…」の定番曲のひとつとなっています。
イントロは長調で始まるのですが、ヴォーカル部分は悲しい短調のメロディーラインでスタート。
サビでは長調に転調するのですが、なんといっても歌詞が
「さようならを 決めたことは 決してあなたのためじゃない」
「もう二度と 二人のことを じゃましたりしない」
と、別れ・失恋(しかも女友だちとの三角関係を連想させる世界)をテーマにしているため、クリスマスの「明るさ」「温かさ」より「哀しさ」「切なさ」の方が強く胸に残ります。
そこがまたグッとくるポイントでもあります。
きっとマスメディアの影響でしょう…
いつの頃からか、クリスマスは「恋人と過ごさなければいけない」的な空気感(?)がありますが、みんながみんな好きな人とハッピーなひとときを過ごせているわけではない。
つらく悲しい別れを体験した人も、少なからずいるはず。
切なさを表現したこの曲が支持されたのには、そんな背景もあるのかもしれません。
オリジナルのシングル盤サウンドではなく、ピアノ&ストリングスの別アレンジです。
皆様に、メリークリスマス!!