さえわたる 音楽・エンタメ日記

オリジナル作品紹介、歌の解説、ヴァイオリン演奏、言葉の使い方、エンタメニュース、旅行記などについて綴っています

「ブログを読まれたい欲求」は無限大。しかし時間は有限。ブログにこんなに「とらわれて」いてよいのか?

細々ながら毎日更新しているのにいささか自己矛盾ですが、承知の上でタイトルをつけました。

あくまで自分のケースでの「大いなる独り言」として書いているつもりですが、もしお気に障る表現がありましたら、どうぞご指摘下さい。

 

3月に開設以来、今日で146日連続更新中です。

しかしこれは、便利な「予約投稿」機能のためであり、毎日書いているわけではありません。

 

「読んでもらう」ことを前提に考えた場合、その文字数とクオリティーは…。

客観的評価が難しいクオリティーはさておいて、自分の記事においては、文字数は「毎日であればこれくらいが適度。否、これでも長すぎる」とさえ思っています。

「1000文字」「A4用紙1枚」「新聞1面のコラム欄」などがイメージの目安です。

目次も要らない分量だし、画像も色もあえて入れていないので、実に味気ないものかもしれません。

しかし、それを超える記事を書き続けるほど、ブログに充てる時間は本当はないはずなのです。

 

一方、読んで下さる側に立って考えても、それ以上になると、熟読する時間がない、集中力が切れてしまうのではないか、と懸念するのです。

長い記事をスマホで読む場合、スクロールしてもスクロールしても終わりが見えない事態になります。

 

私の場合、読者登録をしている方々のブログが、1日に平均20通ぐらいアップされます。

「登録」した記事はすすんで読みに行きます。

そして、必ずスターを付けます。

数で調節することはありますが、決してスルーはしません。

ちょくちょくコメントも入れている方だと思います。

なぜなら、誰に強制されたわけでもない、自分で「興味」を持って読者「登録」をしているのですから。

その方々とのつながりは疎かにしたくないですから。

 

ブログは「自分の記事を書く」だけでなく、「ブロガーさんの記事を読む」ことにも相応の時間を割けなければ、参加する資格はないと思えてきました。

この前も書きましたが、「書きっぱなし、読まれっぱなし」は、やはり自分の中では納得がいきません。

そうなると、「書く」方は予約投稿で事前登録が出来たとしても、「読む」方はリアルタイムで、ということになります。

「読まれるために読む」、これをうまくコントロールできないと、ブログに「とらわれている」状態に陥ります。

 

 

仮に「読む量」を抑えれば、必然的に「読まれる量」も減少するでしょう。

自分から読みに行きもしないのに、アクセスやスターだけ欲しがるのは虫が良すぎます。

淋しいですが、そこを割り切らないと(書きながら、まだ完全には割り切れていない自分がいるのですが…)、本当に仕事や生活に差し支えます。

 

ブログで食べているわけではない。

ほかにもやりたいことが山ほどある。

なのに、「せっかく始めたのだから」の気持ちが積み重なって、いつしか抜き差しならない状況になってしまう。

限られた時間を、ブログにこんなにかけていていいのか?と。

「空いた時間」を少しでも潤いのあるものに、と思っていたはずなのに、いつしか主客転倒していないか?と。

 

ブログの世界でも「承認欲求」(アクセス欲求)には果てがない。

しかし、1日は24時間なのです。

書くことは好きですし、ネタは尽きないので、辞めはしません。

でも、何かを変えなければ、とは思います。

 

 

 

 

「集団お見合いパーティー」に参加した話。ただし…

婚活にはさまざまなスタイルがあります。

今どき、ネットでのお相手探しも非常に多いですが、事が事だけにやはり多くの人たちと「直接」出会って…と考える風潮も根強いようです。

 

そうした出会いをプロデュースする組織は数々ありますが、それに関連してある日のこと、演奏仲間のひとりがちょっと興味深い話を持ってきました。

定期的に「集団お見合いパーティー」を行っている団体が、パーティーのBGM生演奏係を探している、というのです。

場所が場所ですし、しかもパーティーの邪魔にならないように、静かなクラシックは最適、ということで早速交渉成立。

月に1~2回、週末に都内のかなり豪華なホテルの一室を借り切ってのパーティーに、5~6人の演奏スタッフの一員として参加することになりました。

 

入会金やパーティーへの参加費は、自分だったらちょっと手が出ないと思う額でしたが、それでも男女各30人ほどの枠は毎回いっぱいで、実にゼイタクなパーティーです。

 

前半は「名刺交換タイム」で、全員と会話が出来るよう、1人3~4分で順々に交代して進んでいきます。

そして、間にバイキング立食タイムをはさんで、後半はフリーにそれぞれが気に入った相手にアプローチしていくというもの。

我々は、受付開始時刻から始まるまでの「見知らぬ人たちが集まる、なんとも間が持たず気まずい時間(15~20分ほど)」を埋めるべく小さなステージで静か目の曲を演奏。

皆が集まり司会者が話を始めると一旦中断。

そして、緊張感がまだ解けない前半パートから食事時間中適宜演奏を入れ、後半の「アタックタイム」、我々は休憩。

パーティー終了後お見送りとして、また5~10分ほど演奏します。

 

拘束時間は計3時間ほどですが、途中休憩があるので実質演奏時間は1時間程度。

メンバーは同じですし、レギュラー出演しているので、本番用に特段リハーサルを行う必要もありません。

そして何と言っても、会場がリッパなのでバイキングで供される食事も豪華。

参加者たちは食事をするのが目的ではないので、終了後はたいてい大量に食事が余ります。

残った料理はもったいないので、我々が食べ放題としてありがたくいただきます。

 

また、年に何回かは東京湾クルーズ船を貸し切ってのパーティーもあったりして、我々は準備と称して本番クルーズの前に同じコースを事前に1周させてもらえるのです。

パーティーはたいてい夜でしたから、事前クルーズは夕刻。

海から眺める東京の風景は、まさに絶景でした。

 

その後その運営会社はつぶれてしまって、パーティーも自然消滅してしまったのですが…

楽しいことをやって、おいしい料理と謝礼までいただいて、それはそれはおいしいバイトの思い出でした。

 

 

【懐かしい歌No.8】「愛撫」中森明菜

シングルとしての発売は1994年。

この動画は1995年4月5日とありますから、彼女が29歳の時ということになります。

番組は、今はなつかし「夜のヒットスタジオ」のようです。

(TVのためフルコーラスでないのが、実に残念…)

 

タイトルにあるように、小室哲哉が彼女に書き下ろした楽曲です。

この翌年あたりから、いわゆる「小室ファミリー」が音楽界を席巻していくことになるのですが、そうして彼のサウンドを「聴き飽きるほど聴くことになる」ブームの直前にリリースされたのが、この「愛撫」でした。

 

シンガーとしての中森明菜が一番輝いていたのは、デビューの1982年からシングル最後の1位獲得曲となった「水に挿した花」が発売された1990年頃までの実質8年間ほど。

その時代のヒット曲は「出せば必ずトップ1」として、好き嫌いは別として知らない者はいなかった…

客観的な実績を持ち出すまでもなく、松田聖子とともに、ほかのアイドルとは「別格」の存在でした。

 

しかしそれから四半世紀以上が経った今、見たい聴きたいはまた別として「自分で歌いたい曲No.1」は、そんな8年間の大ヒット曲のどれでもなく、「愛撫」なのです。

全盛時の彼女のヒット曲にはかかわって来なかった大作詞家、松本隆の魅力的な詞の功績ももちろん大きいですが、音楽に携わる身としてはやはり楽曲の構成に心を奪われます。

複雑な16ビートは後の小室作品にも共通するものがあるのですが、年齢を重ねた彼女の表現力と妖艶な歌詞とも相まって、独特な世界観を演出しているように感じます。

 

メロディー上のいちばんの特徴は、ワンコーラスの中で「転調」し、しかもそれを2回もしている点。

通常転調には「キーを移しやすい一定のルール」があるのですが、この作品では音楽的にそれを裏切る「パターン破りの移り方」で、さらに2回転調しているのです。

そして、リフレインでは半音キーがアップ。

つまり、1曲で4つのキーがあることになるのです。

これはきわめて珍しいパターンです。

 

特に小室メロディーのファンではありませんが、この歌はよく出来ていると思います。

明菜もそれを難なく歌いこなしています。

歌唱中ずっとクールに演じていた彼女が、ラストで緊張がほぐれてか不意に微笑みを漏らす場面が、なんとも印象的です…

 

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ソロアイドル史第17章~1987~89年デビュー組

ソロアイドルの終焉は、ちょうど昭和から平成への移り変わりの頃でした。

1987年は85、86年のおニャン子旋風の続編として、工藤静香生稲晃子斉藤満喜子による3人組ユニット「うしろ髪ひかれ隊」が「時の河を越えて」でデビュー。

その3人がまたそれぞれにソロデビューしているのです。

後に工藤静香は「禁断のテレバシー」でソロデビュー、その後「MUGO・ん…色っぽい」「嵐の素顔」「慟哭」「黄砂に吹かれて」などヒットを連発。

生稲晃子は翌88年「麦わらでダンス」、斉藤満喜子は「やりたい放題」がソロデビュー曲でした。

また前回少し触れた「うしろ指さされ組」の岩井由紀子も「ゆうゆ」として「天使のボディーガード」でソロデビューしています。

 

おニャン子以外でのソロデビューアイドルとしては、今なお人気健在の森高千里

シンガーとして注目され出したのはデビュー3年目の「ストレス」、そして1971年の南沙織のデビュー曲をカバーした「17才」がヒットした頃からでしょうか。

(ちなみに、彼女が「17才」を歌ったのは自身20歳の時。シングルのカップリングのタイトルはズバリ「20才」でした…)

その後、アイドルとしては珍しく彼女自身の作詞により「臭い物にはフタをしろ」「私がオバサンになっても」などユニークな楽曲を発売する一方、「雨」や「渡良瀬橋」といったバラードも発表するなど、露出度の少なくなった現在も幅広い知名度を保っています。

 

酒井法子も1987年「男の子になりたい」でデビュー。

この年は4枚目の「夢冒険」が多少ヒットしたぐらいで、最大の代表作と呼べる「碧いうさぎ」がヒットしたのは8年後の1995年でした。

 

1988年は西田ひかるが「ぼくらのセディ」でデビューしましたが、アイドルとして知られるようになったのは3年後の「ときめいて」(紅白初出場曲)や、さらに3年後の「きっと愛がある」などでしょう。

 

1989年は田中美奈子が「涙の太陽」(1971年の安西マリアの曲をカバー)、田村英里子が「ロコモーションドリーム」でデビューしましたが、レコード大賞の最優秀新人賞を獲得したのは、歌謡曲寄りの楽曲「ふりむけばヨコハマ」のマルシアでした。

ここに、80年代前半までのアイドルブームは末期を迎えた印象がありました。

 

ソロではありませんが、アイドルのポジションとしてはWINKが88年に「Sugar Baby Love」でデビュー。

3枚目のカバーシングル「愛が止まらない」でブレイク、翌89年、独特な振り付けと共に話題となった「淋しい熱帯魚」がレコード大賞を受賞したのが活動のピークでした。

 

男性については触れてきませんでしたが、第11章(1981年)で近藤真彦を取り上げて以来、目立ったソロアイドルは現れていません。

アイドルの登竜門であるジャニーズ出身者は、シブがき隊、少年隊、男闘呼組光GENJI、いずれもグループでのデビューです。

 

時代は平成へ。

1990年代前半は、いわゆるAVEX系の歌手がヒットチャートを賑わすようになり、そして90年代中盤から後半にかけての数年間はKOMUROサウンドの全盛期。

それを追いかけるように、その後数年アイドルシーンを一時期復活させたのがモーニング娘。を軸とする「ハロプロプロジェクト」でした。

そして現在2010年代に入り、ヒットチャート上は「AKB・坂道グループ」が1位の座を代わる代わる席巻し続け、合間に「ジャニーズユニット」「EXILE系」と「2.5次元系」などが持ち回りで1位を獲得している状況です。

 

 

アイドルの「転身」による生き残り~「タレント」という進路

「はやり歌とともに」カテゴリーで、70年代からのアイドルブームを彩ったたくさんの名前を挙げてきました。

 

デビュー後どんなに大ヒットを連発したスーパーアイドルであっても、トップの座を維持できるのは長くて5年程度。

それ以上同じスタイルでヒット曲を生み出し続けているのはほんのひと握り、否、ほとんど稀です。

その後は、ヒット曲という「宝物」を武器に、自らの「市場価値」をどのように活用して(若干語弊のある言い方ですが)芸能生活の延命を図るか…にかかってきます。

 

「現役」で歌が売れなくなり、あるいは新曲が出せなくなり、歌を歌わなくなったアイドルの「進路」は、大きく2つあるように思います。

 

ひとつは「役者」への転身。

歌でなく「俳優・女優」として映画・TVドラマに進出する方法です。

ジャニーズで言えば、シブがき隊だった本木雅弘、少年隊の東山紀之、V6の岡田准一などは、今や立派な俳優です。

女性であれば、浅野ゆう子片平なぎさ小泉今日子斉藤由貴中山美穂など、かつてアイドルとして歌を歌っていたことさえ知られていない(忘れられてしまう)ほど、女優としての知名度を維持しています。

 

もうひとつが、とても便利な用語として使われる「タレント」業です。

タレント、もともとは「才能」という意味ですが、今ではオールラウンドプレーヤー的にTVに出ている人全般を指す言葉になっています。

本格的にお芝居をやっているわけではない、もちろん歌を出しているわけでもない、しかしTVにはバラエティー番組を中心にスタジオゲストやコメンテーターとして露出し続けている。

時にはMCを張っているケースも。

元シブがき隊の薬丸裕英、元SMAP中居正広、V6の井ノ原快彦、松本伊代菊池桃子、「バラドル」と呼ばれた山瀬まみ井森美幸森口博子…などはその一例でしょう。

 

形は変わっても、「あの人は今」にはならず、浮き沈みの激しい芸能界の第一線で活躍していられる…

現場からのニーズが無ければ、生き残ることはできません。

個人的な好き嫌いは別として、そのパワーは大したものだと感心します。

 

 

 

ちょっと厳しいこともある「ひとり〇〇」その2。自分のOK/NGライン(飲食店以外編)

昨日は飲食店に限定した話でしたが、外出の主目的は飲食以外にもっと別のところにたくさんありますよね。

 

歌好きの私にとって、最も身近な近所の外出先が「カラオケ屋」です。

自宅から徒歩圏に、カラオケ屋があります。

数年前から市民権を得始めている「おひとりさま専用カラオケボックス」ではない、複数客向けの普通の店構えをしていますが、ひとりで行ってもまったく問題なく受け入れてくれます。

夜間や休日など混雑する時間帯を避けて使っていれば、部屋も機種も選び放題。

実に快適です。

体調も考慮して、1回あたりだいたい2時間ぐらいと決めています。

曲数にして、20曲ちょっと。

好きな歌を好きなだけ歌って、勝手に自分の歌いっぷりに「酔いしれ」て、フリードリンク付きでワンコイン。

こんなにお手軽で気楽なリフレッシュはありません。

 

「旅」について。

「旅の思い出」カテゴリーで旅行記を連載中ですが、書いていることの半分近くは「ひとり旅」ネタです。

誰にも束縛されず、大好きな鉄道に乗りまくる…

そうすると、自然に「ひとりでの行動」。

旅先での飲食は当然ひとりで、ということになりますが、地元民だけが集まりそうな大衆食堂だろうが居酒屋だろうが、旅先だと何の気兼ねもなく自然に入れてしまうのは、なんとも不思議ですね。

ただ、海外になるとやはりこわくて、ひとりでの行動は出来ていません。

 

「ひとり映画館」もまったく平気です。

たまには映画館のあの独特な空気を味わいに行くのも悪くないな、と思ってはいるのですが、なかなか「これは!」と思える作品に出会えていません。

これがライブのコンサートになると、ひとりで出向くのはちょっと気が引けてしまう…

生の臨場感を味わうには、やはり連れがいた方がありがたいです。

 

動物園や水族館もけっこう好きで、ひとりで足を運びます。

(個人的には、水族館は全般にやや割高な印象がありますが)

気が付いたら、動物の愛らしいしぐさに惹かれ、オリや水槽の前に何十分も立ち尽くしていた…なんてこともよくあります。

 

「人が集まる」という意味では同じなのですが、テーマパークとなるとひとりはハードルがかなり高いです。

かつて、家族ぐるみの仲間がいくつか集まってTDRに行く機会があったのですが、私の家族だけ急きょ都合が悪くなって、でもチケットがあるのでもったいないと思い、ひとりで参加したことがあったのです。

最初は友人家族と一緒に動いていたのですが、なんとなく気まずくなって単独行動になったが最後。

周囲どこを見渡しても、カップルや家族連ればかり。

楽しいはずのあの広大な敷地にひとり…なんと過ごしにくいことか。

あの思いだけは、もう二度と経験したくありません。

 

「ひとり〇〇」。自分のOK/NGライン(飲食店編)

「孤独」「孤立」という言葉には「ひとりぼっち」=「悲しい」「淋しい」「かわいそう」といったネガティブなイメージが付きまといがちです。

「おひとりさま」の呼び方も、まだちょっとしっくり来ません。

もちろん、人と人とのつながりは大事ですが、だからと言って行動する時常に誰かと一緒にいなければならない…そんなことはありません。

「ひとり」、気楽で大いに結構。

 

「ひとり〇〇」、世の中で自然に受け入れられるようになってきた印象があります。

そこで、自分だったら何がOKで何がNGか、思いつくままにちょっと考えてみました。

 

いちばん身近な「お出かけ」、スーパーやコンビニのちょっとした買い物を除けば、やはり飲食店でしょう。

飲食店にもいろいろな形態があります。

駅前の立ち食いそば屋や、カウンター席しかない牛丼屋・定食屋は、店の作りからして、むしろひとりで利用することが前提になっています。

(もちろん、カウンター席に2人3人並んで座るのもアリですが)

ここ2~3年で急速に浸透した「立ち食い焼肉屋」も、同じ仲間です。

家庭では出せない味のタレでおいしい焼肉を食べたい、でもボックス席の中央にコンロひとつの従来の型ではひとりではなかなか入店できない…

そんなニーズにピッタリのお店が登場してくれて、とてもありがたいです。

一方、カウンター式でありながら私にとってなぜか入りにくいのが、回転寿司です。

不思議です。

 

ファミレスになると、私としてはちょっと敷居が高くなります。

周囲の目が気になるのももちろんありますが、基本的に家族での来店を想定しているので、4人単位のボックス席が基本。

そこを独占してしまうのが申し訳ない気持ちになり、落ち着かないのです。

2人席が用意されているお店だと、少し安心感が湧きます。

 

お酒がからむ飲食となると、「ひとり酒」はまずあり得ません。

決して飲めない体質ではないのですが、基本的にアルコールを飲まない食生活をしているので、必然的にお酒は公私含め人と集まる時だけ、ということになるからです。

ワイワイ賑やかな居酒屋にひとりで飲みに入るのは、ちょっと考えにくいです。

ましてや、暗い照明でカウンター席だけのバー・スナックの類になると、私にとっては完全に仕事がらみ、接待の二次会・三次会の世界。

ひとりでそうした雰囲気に浸るシーンが、まず想像できません。

やはり、お酒はみんなと一緒がいいですね。

 

 

 

 

全都道府県旅行記~宮城県その2

宮城県は、実際に生まれた土地である熊本、育った東京に次ぐ第三の故郷とも言える場所。

前回触れた石巻(小学生時代の在住地)以外にも、大人になってから観光で訪れたスポットが県内にいくつかあります。

 

まずは秋保(あきう)温泉。

「仙台の奥座敷」として知られる温泉地で、仙台市内から山形方面にやや入った山の中にあります。

ある時仙台に出張に行った際のこと。

その時はちょっとだけ豪勢な出張だったため、通常なら駅近くのビジネスホテルに泊まるところを、秋保まで足を伸ばすことになりました。

仙台の街中から車で30分そこそこの近さなのに、秘境の地に来たような静けさ、緑の濃さに驚いたことを覚えています。

県内の温泉地というと鳴子温泉が有名ですが、アクセスを考えると秋保に軍配が上がります。

仕事がらみでなく、のんびり温泉に浸かることが出来たら最高ですけどね。

 

次に、日本三景のひとつ、松島。

石巻に住んでいた頃、休日には家族で仙台までよく出かけていたのですが、松島はちょうどその中間地点にあったため、途中で寄り道することも時々あり、個人的に身近な観光地でした。

海に文字通り松の木が多く植わった島々が点在する景色も見事ですが、湾内を巡る遊覧船に乗って海の上から島々を巡る方が、はるかに迫力があって素晴らしいです。

その知名度も手伝って、県内No.1の観光客数を誇る観光地になっています。

 

美しい景色を拝める個人的穴場が、金華山です。

県の東端にある牡鹿半島に浮かぶ小さな島。

石巻からJR石巻線でさらに東方向に向かうと、女川(おながわ)駅が終着駅になります。

ほど近くの女川埠頭から船で30分ほど。

山と海しかないシンプルな風景ではありますが、島全体が黄金山神社のエリアになっているせいか、美しい中にも荘厳な雰囲気が漂っており、私が行った際にはご利益を求めるたくさんの参拝客に出会いました。

アクセス的にはちょっと不便ですが、「手垢のついていない」良さがあります。

 

 

 

一方的「ラブコール」は切ない~ブログは「書きっぱなし、読まれっぱなし」と割り切らないと、続けていけないのかも?

はてなブログだけでも、ものすごい数のブロガーさんが投稿しています。

更新される記事も膨大です。

その一部を読んでいると、

「これだけのボリューム、これだけの内容の記事を毎日更新するために、1日のうちどれだけの時間を費やしているのだろう?」

と、心の底から思ってしまいます。

 

人気ブログには、当然たくさんのアクセスがあり、たくさんのスターがついています。

私もそうした方の記事を読みに行きますが、私が記事を書くと毎回ちゃんとスターを付けに来て下さる方が(一部ですが)いらっしゃいます。

と言うことは…

自分の記事は記事としてしっかり仕上げ、なおかつほかの方の記事も(少なくとも読者登録をした人、アクセスのあった人の分は)キチンと読んでリアクションをしていることになります。

心から、素晴らしいことだと思います。

 

私も、自分の記事にスターを下さった方の記事は必ず読みに行きます。

そして、訪問の軌跡として必ずスターをつけるようにしています。

開設以来毎日、5か月以上それを繰り返しています。

今はアクセス数が少ないのでそうした「個別対応」が出来るわけですが、仮に読者が増えた場合、喜ばしいと思うと同時に、自分の考え方でやっていけるのか…

 

今でも、ネタを考えて1000文字程度の短い記事を書くだけのことに、まあまあの時間を使ってやっています。

律儀に自分なりの「流儀」を貫こうとしたら、絶対にどこかで破綻しそうです。

「書く」ことは好きなので続けたい。

でも、どういう形であれそれがストレスになったら、本末転倒です。

 

「堅苦しく考えず、自分の好きなペースでやればいい」。

答えはわかっているのです。

星の数ほどある記事の中で、世の中に自分のメッセージを思い通り広く伝えることなど意識せず、人様に迷惑をかけない範囲で自由にやればいいのです。

 

しかし。

そこで大きな心の支えになるのは、やはりアクセスであり、スターです。

ホンネを言えば、たくさんの方々に読まれるのはもちろん「快感」。

アクセスやスターは、できれば閲覧の証としてゲットしたい。

ただ、現実は厳しいです。

実際のところ、10人読みに行ってようやく1人に読まれるくらいで、スターに結びつくのはさらにその何分の1。

一方的にラブコールを送るのは、やはり切ないものです。

正直「どうしたらスターが得られるのか」「自分の文章はスターひとつにも値しない魅力に欠けるものなのか」と凹みかけてきています…。

 

仮にアクセスやスターが増えた時、自分の上げた記事は「上げっぱなし。読まれっぱなし」でないと、上述したような「律儀(?)な対応」はとても続けられない。

何百の単位でのブックマークやスターの獲得者の方々は、どう対応されているのか、真剣に気になっています。

極端な例えですが、有名芸能人が何百万人ものインスタフォロワーを持っても、わざわざ読者に個別対応などしていない(であろう)…

それと同じなのでしょうか?

 

アクセスがひとつでもある限り、今後も続けていくつもりではいますが、書くたびに心の底で(軽く悶々と)そんな自問自答を繰り返す日々です。

【懐かしい歌No.7】「津軽恋女」新沼謙治

動画タイトルには2017とありますが、楽曲は1987年発売。

(音源も発売時のものです)

1976年「おもいで岬」でデビューし、2枚目のシングル「嫁に来ないか」のヒットで知名度を上げた新沼謙治が、デビューから10年以上経ってから発表した楽曲です。

 本人歌唱の動画もあったのですが、ここではCD盤の音源のものをセレクトしました。

 

デビュー当初から「演歌歌手」として位置づけられていた彼ですが、もともと「こぶしコロコロのド演歌歌手」ではありませんでした。

この「津軽恋女」も、いわゆる演歌に多用されるメロディーラインではありません。

セールス実績はいまひとつではありましたが、太宰治の小説「津軽」からヒントを得たとされるサビのフレーズ「津軽には七つの雪がふるとか」として「こな雪・つぶ雪・わた雪・ざらめ雪・みず雪・かた雪・(春待つ)氷雪」と16分音符でたたみかけながら歌いあげる部分は、県は違うものの同じ東北(岩手)出身の彼による歌唱とも相まって、豪雪地帯・津軽地方の厳しくも美しい風景を思わせる、ニッポン人の心に深く入り込んでくるような深い味わいを感じさせます。

 

現在のカラオケでも、オリジナルバージョン・生演奏バージョンなどいくつかのパターンが用意されており、彼の代表曲のひとつであることがわかります。

今後も残って欲しいと願う、私の愛唱歌の大事な1曲であることは、言うまでもありません。

 

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ソロアイドル史第16章~1986年デビュー組

前回1985年は「おニャン子クラブ」の登場を取り上げましたが、この年および翌87年は、その余勢を買って、グループからのソロ・あるいはデュオ・トリオでのデビューがまさに「怒涛のように」発生した年でした。

それぞれがセカンド・サードシングルぐらいまではリリースしていきますから、デビュー時のセールスはないにしても、聞いている側からすると「お!またおニャン子か」的な状況になります。

なにせ「ソロで続々」ですし、今と違ってTVでも歌番組全盛の時代でしたから、その勢いは現在の「AKB・坂道」をある意味超えるものでした。

 

前年の河合その子に続き、新田恵利が「冬のオペラグラス」、国生さゆりが、後年「2月になれば…の定番」として長く歌い継がれることになる「バレンタイン・キッス」でデビュー。

(シングル発売週は岡田有希子の「くちびるネットワーク」に1位の座を譲りましたが、セカンドシングル「夏を待てない」では初登場1位を果たしています)

後におニャン子クラブの「仕掛け人」である秋元康夫人となる高井真巳子も「シンデレラたちへの伝言」でデビュー。

さらに岩井由紀子(ゆうゆ)と組んでのユニット「うしろ指さされ組」のメンバーにもなります。

さらにさらにそのゆうゆが、ユニットとは別に翌年にはソロデビューもするという凄まじさ。

 

当時グループ内で「W渡辺」として人気を博していた2人。

渡辺美奈代は「瞳に約束」、渡辺満里奈(現:ネプチューン名倉潤夫人)は「深呼吸して」で相次いでデビューしました。

 

アイドルグループでありながら、唯一「演歌歌手」としての看板を背負ったのが、城之内早苗です。

(AKBで言うところの岩佐美咲の先駆者)

演歌としての(詳しく見ると、楽曲的には純粋ないわゆる「ド演歌」のメロディーラインではないのですが、それはさておき)ソロデビュー曲「あじさい橋」までもが、「おニャン子旋風」に乗ってオリコン1位の座を獲得しました。

30年以上経った現在も、演歌歌手として活動中です。

 

また、「セーラー服を脱がさないで」ではセンター的ポジションにいた福永恵規(さとみ)が「風のInvitation」で、内海和子が「蒼いメモリーズ」でやはりソロデビューしています。

ソロではありませんが、「私は里歌ちゃん」でデビューした4人組「ニャンギラス」などというユニットも生まれました。

 

おニャン子以外のアイドルとしては、現在もタレントとして第一線で活躍する山瀬まみ

作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂松任谷由実)、編曲:松任谷正隆という強力布陣で臨んだ楽曲「メロンのためいき」がデビュー曲です。

作品は王道のアイドルポップス、歌唱力もなかなかと思われましたがヒットには恵まれず、その後彼女はバラドル、あるいはそれにとどまらない一歩進んだタレントとして現在も活躍中です。

さらに、これまた現在もTVで見かける西村知美も「夢色のメッセージ」でアイドルデビューしています。

会場探しも裏方も、全部自分たちでやったコンサート

これまでお話ししていたステージ活動は、主催者からのオファーがあって、あるいはイベント開催が決まっていて、いわば「お誘い」に乗って演奏なり歌唱なりを行っていれば済むものばかりでした。

すべてお膳立てされているのですから、それはそれは恵まれた環境でのステージでした。

 

しかし、そうではないステージも経験したことがあります。

高校、大学、そして社会人になってからも、バイオリン奏者として長くオーケストラでの演奏に携わっていた私。

その一端は、以前「北海道演奏旅行記」として、このカテゴリーでもご紹介しました。

 

100人近いメンバーが一堂に会し、心をひとつにして作品を演奏する…

その興奮・高揚感は、経験者ならではのものがあります。

その一方で、クラシック音楽には「室内楽」というジャンルがあります。

大きなホールではなく、文字通り室内(小さなステージ)で数名から十数名の少人数で演奏を行うというものです。

 

代表的には、弦楽四重奏(第一バイオリン・第二バイオリン・ビオラ・チェロの4人)、あるいはそれにピアノを加えたピアノ五重奏という編成があります。

大勢での演奏ももちろん楽しいけれど、少人数でより一層互いの心を通わせながら、繊細なハーモニーを目指すのも、また格別なものです。

オーケストラ活動は高校の部活の時から始めていたのですが、その中から特に仲の良かったメンバーと数人のグループを組み、収容人数200名程度の小ホールでの「自主コンサート」を開催する、そんなことも同時に行っていたのです。

 

ゼロからの自主的な活動に当たってまず苦労したのが、練習場所の確保。

お互いのメンバーの自宅を持ち回りで使ったこともありましたが、なにせ「音」(周囲にとっては騒音)が出ますから、どうしても気を遣ってしまう。

そこで、よくバンドが使う遮音の練習室を時間単位で借りて練習したりして。

手ごろな大きさのホール探しも、容易ではありません。

せっかくコンサートをやるのだから、その記録も残したいと、音響に詳しい知人に録音のセッティングも依頼しました。

それ以上に困ったのが、肝心の観客集め。

各々が己の人脈のすべてを駆使して、なんとか8割方会場を埋め尽くし、2時間ほどのコンサートを開催。

そんな活動を、社会人になってからも含め、10回近く行ったでしょうか。

「裏方」稼業も含め、全部自分たちで運営したものですから、無事本番を終えた時の達成感は言葉に出来ないほどでした。

 

そして、そんな活動になんと「スポンサー」の付く日がやって来たのです。

日を改めて、その時の活動のお話もしたいと思っています。

 

 

赤ちゃんや動物の登場するCMは、単に可愛いだけでなく…

「番組企画に困ったら、赤ちゃんと動物を使っておけば間違いない!」

ギョーカイ関係の知り合いから以前聞いた話です。

 

確かに、赤ちゃんはニンゲンでも動物でも文句なしに可愛い!

見ていてほっこりする人がほとんどだと思います。

実際、かつては長寿番組「どうぶつ奇想天外」、今も「志村どうぶつ園」に続き「坂上忍どうぶつ王国」と、動物をテーマにした番組が健在です。

 

CMの世界でも、両者が取り上げられるものは少なくありません。

直接的には、紙おむつのCMに赤ちゃんがぐっすり眠る姿が使われたり、ペットフードのCMで犬や猫がおいしそうに食べるシーンが使われたり。

また、必ずしも赤ちゃんや動物を登場させる必然性はないのですが、最近見かけるAMAZONのCMでも、両者が効果的に登場しています。

 

記憶に残っているのは、赤ちゃんが大きな犬を当初こわがって泣いていたのが、犬にライオンのお面をかぶせてみると、だんだん心を許して犬に手を出せるようになるストーリー。

赤ちゃんに嫌われた犬の寂しそうな表情がなんとも切なくて、印象に残っていました。

 

そして「犬編」第2弾では、白い大きな犬(グレート・ピレニーズという犬種らしいです)のために、おもちゃやブランケットを買ってやるストーリー。

人間の寝るベッドで、飼い主の隣で本当にいびきをかいて眠っている姿が、これまた愛らしいです。

 

ニンゲンの大人であれば、当然撮影に合わせた「演技」が出来ます。

スケジュール通りに作ることが出来るでしょう。

しかし、赤ちゃんや動物相手だと相手次第。

「ベストショット」が撮れる「奇跡の一瞬」をひたすら待つしかない。

待って待って待ち尽くして15秒・30秒を制作する。

そのための制作陣の苦労がしのばれて、ついつい見入ってしまいます。

 

 

 

出演者紹介「〇〇です」~「です」ばかり強くて肝心の名前が聞き取れない

TV番組で、冒頭MCが出演者を紹介する、あるいはゲストが自己紹介するコーナーがあります。

この時、(偏見かもしれませんが)特に若手の女性タレントでよく見られるのが、自己紹介に当たり、自分の可愛らしさをアピースするねらいからか(あるいは無意識に?)

「◇※&#♡▽『です』」

のように、肝心の名前の分をムニャムニャと曖昧に、そして語尾の「です」の部分だけ尻上がりにして言葉を発する場面です。

 

TVならたいていテロップが表示されるので特に気にすることもないのですが(そもそもひとりひとりの出演者の名前まで気にしない)、あまり心地良いものではないなぁ、と。

 

あのイントネーションを聞いていて、仕事上でも「ぶりっ子言葉」ではないものの、同じようなことがあると気づきました。

面と向かっての会話場面ではあまりないのですが、気になるのはTELでのケース。

 

ベルが鳴った際、相手が誰かは当然わかりません。

もちろん相手は最初に「肝心の」社名と自分の名前を名乗ってはくれるのですが、そこの部分が聞き手にとっては異様に早口と感じられることが多いのです。

受話器のヨコにはメモ用紙が置いてはありますが、書き取る時間さえもありません。

馴染みのお得意さんであればすぐにわかるのですが、初めての相手だったり、自分の担当でなくて、かつ誰かに取り次がなければならない場合など、「大変恐縮ですが、もう一度御社名とお名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」と問い返すことになってしまいます。

 

「人のふり見て我がふり直せ」。

肝心の固有名詞部分は、特に意識的に「ハッキリと、かつゆっくり」喋らなければならない…

改めてそう感じるのでした。

 

 

 

ブログ入力における「改行」問題

「問題」というほど大層な話ではないのですが、ほかの方々のブログを読んで、自分自身も意識していることのひとつとして「入力する際、どこで改行するか」は、読みやすい文章のためにけっこう重要な要素だと感じます。

 

 私自身の基準は、

・「マル」(句点)がついたら改行する(ひとつの段落には一文だけ)。

・話が変わる時は、さらに一行空ける

が原則です。

そうすると、画面上とりあえず見やすくなるかな、と思って行っています。

 

これって、ブログを始めるにあたって特に意識したものではありません。

ビジネスメールで「業務上の連絡は要点を簡潔に」を実践するために、自然にそういう書き方が身に付いたような気がします。

パソコンやスマホで読むに際しては、「適度に隙間が空いている」方が確かに目に優しいです。

さらに発展して、ブログの場合は(私はできていないのですが)フォントを大きくしたり、色を変えたりするのも効果的な面がありそうです。

 

時に、文字数はさほど多くはないものの、この改行のスペースが何行分もある記事に出会うことがあります。

ず~っと空いていると、次に何が書いてあるのかの期待も湧きますが、文字数の割にたくさんスクロールをしなければならなくなります。

特にスマホで読む場合、このスクロールが延々と続き、正直かなりの労力になります。

終わりが見えず、最後までたどり着かないで読むのをやめてしまう場合もあります。

従って、個人的にはあまり効果的ではないと思っています。

 

最近活字と言えば、ディスプレイ上の文字を見ることが圧倒的に多くなりました。

ウチでは新聞もとっていませんし、駅の売店で週刊誌を買うこともありません。

そんな中、本を読むのは昔から好きで(もちろん今は電子版もあるのですが、やはり紙の感触が心地良くて)、ベッドの枕元には、寝る前の10分20分を費やすための文庫本が常に置いてあります。

 

本を実際開いてみると、画面で読み慣れた活字に比べて、まぁなんと改行の少ないことか!と驚かされます。

ひとつの段落にいくつもの句読点が並び続けた末、ようやく改行される。

1ページの「密度」が異様に高いのです。

小説でセリフが綴られている時はカギカッコがつきますから、自然にその都度改行されて白紙スペースが増えるのですが、その他の部分は文字がギッシリ。

作家によっては、1ページまるまる改行がないこともあります。

パッと見ただけで、難しい論文を読まされるような気分になってしまいます。